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革命に関するpengin-stellaのブックマーク (2)

  • 亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(2) - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    23ページで亀山氏は「革命は善であるという前提がいつ、どこで崩れたか」ということをいい、それに対し沼野氏は自分にはその前提はない」と答える。それに対し、亀山氏は自分は「暴力というものに嫌悪感をもつのだが、ロシア革命というのは正義の暴力だったと思っていた」と答える。あとから考えると浅はかだったが、自分たちの世代の大半がそうだったのではないか、と。 亀山氏はわたくしより2歳年少であるのだから同世代といっていいのはないかと思うのだが、わたくしは革命が善であると思ったことは一度もない。それは革命というものが暴力を内包するからではなくて、社会の体制を変えることによって人間を変えることができるとする見方を信じたことが一度もないからであると思う。そして、そういう自分の見方は文学によって培われたと思っているので、文学の側の人間である亀山氏がそういうことをいうのがわからないことになる。 第一章の最初で「文学

    亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(2) - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • ロシア革命100年、なぜこうも忘れられたのか

    五月革命が自由を求める革命であるとすると、フランス革命への解釈も連鎖的に変わっていく。フランス革命も自由を求める革命だとすれば、1871年のプロレタリアート独裁政権「パリ・コミューン」やロシア革命のような平等を求める社会主義・共産主義運動は、フランス革命とまったく共通点をもたなくなるのだ。 いやそれどころか、ロシア革命は、自由を求める革命に対する反革命のようにも見えてくる。ロシア革命が意味をもつとすれば、せいぜい後進国が先進国に変わるためのテイク・オフ(離陸)のひとつとしての意義にすぎなくなる。 フランス革命がブルジョワ革命であり、それがブルジョワ的自由、すなわち富裕層の私的所有を守る自由を実現したものであるならば、それによって生まれた民衆の貧困を救うための平等を求める声は、自然に生まれるはずである。その革命を実現しようとしたのが、19世紀の社会主義者たちであった。 しかしフランス革命は、

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