1887年(明治20)6月に福沢諭吉門下の井上角五郎が米国のシエラネバダに土地を購入して広島県人30余人を連れて入植したことや、1889年(明治22)に荒井達爾が熊本県人50人を連れて米国ワシントン州に入植したことがあるが(いずれも不成功に終わっている)、この時期までの移民は、いずれも資本も教育もない貧困にあえぐ国民が、出稼ぎ目的で鉱山や農場の過酷な労働に携わるものであった。 1892年(明治24)5月外務大臣となった榎本武揚は、このような出稼ぎ目的の移民の送出しではなく、日本の資本により外国で土地を購入または借用し、移民を入植・開墾・定住させる殖民論を唱え、それを実現するため外務省における移民課の設置、移住適地調査といった施策を実施しようとした。だが、榎本の外務大臣退任後、この政策は引き継がれなかった。 榎本個人としては、外相辞任後の1893年(明治26)2月、自らの理想を実現するため殖