2011年12月24日09:14 カテゴリメディアエネルギー 朝日新聞のあおる放射能の恐怖 きのうの記事では反原発派の言論攻撃が蓑田胸喜に似ていることを紹介したが、蓑田は日本を暴走させた主犯ではない。彼の極端な言説は次第に政治やメディアの主流からは敬遠され、『原理日本』も1944年には廃刊された。しかし蓑田がはずみをつけた好戦的な世論の暴走は止まらなかった。それを推進した主犯は、新聞である。 半藤一利氏は、1931年の満州事変のあとの朝日新聞の方針転換をこう書いている:事変が起こった9月18日から即座に、東京朝日は陸軍擁護の太鼓をたたきだしたのに、大阪朝日はそれとは別に「中国民族主義の積極的肯定」という理念をかかげ、軍部批判の筆鋒をゆるめようとはしませんでした。その結果、何が起こったかといえば、在郷軍人会や主戦強硬派による非売運動であったのです。奈良県下では一部も売れなくなったといわれてい