野麦街道と野麦峠 街道の概要・解説 野麦街道(かつては飛騨道・善光寺道とも呼ばれていた)は古来より、東日本と西日本を結ぶ重要な道路として、また飛騨国と信濃国を結ぶ主要路であり、この街道から多くの歴史文化が生まれました。 中世には北陸と信州を結ぶ交易路として、能登で取れたブリ(鰤)を飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋でもありました。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾=米1斗の値段が、峠を越えると米1俵になると言われるほど貴重であり、野麦峠の麓ある奈川は運搬を担う人と牛の中継地として重要な場所となりました。野麦街道はブリ街道とも呼ばれ、江戸時代、尾張藩の庇護のもと発達した尾州岡船と呼ばれる牛による運送は、貴重な産業として奈川の地域を支えていました。 野麦街道のブリの輸送は、明治35年(1902年)に国鉄篠ノ井線が開通し、松本地方が鉄道で結ばれるまで続きました。 明治の初めから大正・昭和初
![背景と歴史|野麦峠ミュージアム](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/e2c28aed22ff0f07b7c2c9434fa2903b36691e9a/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fmuseum.furusatonagawa.com%2Fbdflashinfo%2Fthumbnail-large.png)