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信仰に関するajitaのブックマーク (4)

  • 自己啓発本はなぜ流行るのか? - 草食系大学院生の読書日記

    この前の続き。BRUTUS1月号で面白かったもうひとつの記事は速水健朗さんの自己啓発ブームを取り上げたもの。 BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌] 出版社/メーカー: マガジンハウス発売日: 2010/12/15メディア: 雑誌購入: 15人 クリック: 229回この商品を含むブログ (27件) を見る 記事によれば、昨今の自己啓発ブームは1990年代のアメリカで始まったものである。資主義のグローバル化、金融中心化の影響を受けて、アメリカの中流層の多くがリストラによって下流層へ転落し、格差が拡大した。そんな彼らが頼ったのが宗教であった。90年代以降、メガチャーチと呼ばれる超大型教会が急増し、仕事や生活を奪われつつある人々に対し、「信じれば救われる」といったわかりやすい教義を掲げることで、多くの信者を獲得した。これらメガチャーチには「宗教保守」が多く、ブッシュ

    自己啓発本はなぜ流行るのか? - 草食系大学院生の読書日記
  • SYNODOS JOURNAL : 科学者が発言するということ 八代嘉美

    2010/10/67:0 科学者が発言するということ 八代嘉美 ここ数年、書店に行くとかなり多くの科学系著作物をみかけるようになった。だが、そうした書籍が詰まれた棚から何冊かを手に取ると、逆に暗澹たる気分にさせられてしまう。たとえば「脳」にかかわる書籍である。脳は何秒だかで恋をする、脳がグングン動き出すナントカ式勉強法、なんて飛びつきやすい言葉が並んでいる。現在の脳科学は、そんなことを示せているのだろうか。 たしかに、さまざまな新しい技術が生まれ、脳科学は発展しつづけている。頭皮の上からニューロン(神経細胞)で生じた電位変化を測定するEEG、脳内の電流によって生じる磁界を測定するMEGといった、脳の活動を電気生理的に調べようとするもの。また、fMRIなどといって、ニューロン活動が盛んな脳部位をモニターすることができるようになる装置があげられる。 こうした機器を駆使することによって、ある条件

    ajita
    ajita 2010/10/12
    「世界は分けても分からない、のではなく、世界を分けたからこそ知識への扉は開かれたのだ。」同意。宗教化した大乗仏教は「無分別」を称揚したが、科学的な態度を重視した初期仏教は「分別説」だったんだぜ。
  • Buddhistlife.net | 人の信仰を笑うな 『仏陀再誕』について

    先日幸福の科学の映画『仏陀再誕』を観てきた。普段であれば上映館数も少なく幸福の科学信者だけのものとして一般人の話題になることもなくひっそりと公開されるのだろうが、どうも今回は様子が違う。地上波テレビでのCMを流したり宣伝用DVDを秋葉原で配るなど、宣伝にとても力を入れている。上映規模にしても、この夏最大の話題作の一つだったエヴァ破を大きく上回る上映規模だったようで、この映画にかける教団の気度が感じられる。さすが、衆院選の供託金に数十億を費やそうとも何でもないという宗教界のトヨタ、だろうか。 さらにこのところ幸福の科学自体に注目が集まる状況にもあって、でもずいぶんこの映画に興味を持っている人も多い。注目を浴びることになった最大の理由は、幸福実現党を設立し多くの候補者を送り込みながら迷走を重ねたあげく一人の当選者も出せなかった夏の総選挙だろう。全国すべての選挙区に候補者を立て大川隆法自らも出

    ajita
    ajita 2009/11/24
    莫大な広告宣伝費を使ってメディアジャックに近い状況をつくりだしてプロパガンダを垂れ流す新興宗教に対して、信者が苦しむから「笑うな」と言われても違和感がある。宗教は特別扱いされて当然と思ってない?
  • 【レビュー・書評】現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

    現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー[掲載]2009年8月30日[評者]久保文明(東京大学教授・アメリカ政治)■なぜ人は信仰を持とうとするのか 書は、著名な社会学者バーガーによるキリスト教徒としての実践の書である。著者はキリスト教について、さまざまな疑問があることを認めつつ、最終的には肯定的な理解ができることを静かに語りかける(原書の副題は「キリスト教の懐疑的な肯定」となっている)。 著者は冒頭で告白する。現在の神学や派閥はどれも肌に合わない。ルター派を自認しているが、ルター派教会とは肌が合わないため、聖公会の教会に出席している。もっとも居心地よく感ずるのはリベラルなプロテスタントだが、それはこの教派が懐疑と信仰のバランスを保っているからである。現代という時代から逃避することなくキリスト教徒であり続けるには、このバランスが不可欠である。今日

    ajita
    ajita 2009/09/07
    仏教の「信」とは「存在は究極的に苦(空)であり、存在への執着を手放すことが究極の安らい」と理性で納得すること。願望による「信仰」の完全廃棄が、仏教の「信」の確立。その信もいずれ智慧に換えられるべき過程
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