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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/cloud_leaf (10)

  • 物語にならない - 蒸散する物語

    物語 | 00:53 | やあ。どう書き始めたらよいのか悩んでいたんだけれど、昔あるひとがぼくにこう言ったんだ。書き出しに悩むくらいなら、いきなり書きたいことを書いてしまえ、ってね。それはそれで暴論だとは思うけれど、確かにいちばん書きたいこととは関係のないところで止まってしまって、いつかそれきりになってしまうというのはとても惜しいことだよね。もちろん、物語にとってその語り始めがいかに大切かというのはよく知っているつもりだ。物語。そう、きょう書きたいと思ったのは、物語についてなんだ。このブログのタイトルがそうであるように、ぼくはここではつねに物語を書いている。少なくとも自分ではそう思っている。だから時折、実際のぼくの生活とここに書かれたことをあまりに直截的にイコールで結ばれてしまうとちょっと寂しくなるのだけれど、同時に、じゃあ嘘を書いているのかと言えばもちろんそんなことはない。ここに書いてき

  • アウトバーン - 蒸散する物語

    雑記 | 23:11 | 怖い話が好きだけれど、さてほんとうに怖い話となるとなかなか思いつかない。怖くないだけならまだしも、人間性を冒涜するような話、いやそこまでいかなくても人間を馬鹿にしたような話は面白くもおかしくもない。たとえば有名な都市伝説で道路を高速で走るお婆さんの話がある。有名な、などと言っておいてなんだけれどほとんど覚えていない。とにかくまあ、もの凄い速さで高速道路を走りぬけ、あらゆる車を追い抜いていくらしい。それはそれで好きにすればよいのだが、どうにも話の底が浅い。だいたい、肘をついて走ろうがブリッジしながら走ろうが、そんなことでいちいちぼくらは驚くだろうか? 怖がるだろうか? そんなはずはない。ぼくらの日常は、毎日がもっと想像を絶するような愚行や残酷な行為に満ち満ちている。お婆さんが元気に時速100kmで走るなら、むしろそれは喜ぶべきことだ。けれども同時に、夜中、独りで走る

  • 嘘 - 蒸散する物語

    雑記 | 22:58 | ちょっと精神的に疲れていたのですが、タイミング的にも論文に集中しなければならなかったので、ちょうど良かったのかもしれません。まだ完成はしていないのですが、ぼくの活動限界はだいたい午前三時程度ですので、明日の提出には十分に間に合うでしょう。ですので少しブログを書こうと思うのです。嘘をつく、ということがあります。けれども、もうこの書き方からして嘘ですね。そもそも嘘をつくなんてことがあり得るのか。あるいは逆に、真実を言うなどということがあり得るのか。もちろん、どちらもあり得るでしょうし、同時にどちらも不可能でしょう。「当に巧い嘘は、真実の中にほんの一片の嘘を混ぜたものである」ということをしばしば聞きますが、物の嘘つきであれば、これがいかにもっともらしいだけのでまかせかが分るはずです。また一方では嘘つきのパラドックスというものがありますが、あれもまた来の意味での(ぼ

  • きみに贈りたかったもの - 蒸散する物語

    物語 | 17:36 | まだ薄暗いうちから目を覚ます。独りで暮らすには広すぎる家は夜の間に冷え切り、雨戸の隙間から弱々しく差し込む光のなか、きみの吐く息が白く広がる。気合を入れて布団から這い出し、雨戸を開けて布団をたたむ。コーヒーを沸かし、その間にベーコンエッグを作る。新聞を読みながらコーヒーを啜り、トーストを齧る。真冬でも暖房は入れないが、それでもきみが動きまわるうちに、部屋の空気は少しずつ緩んでいく。器を洗い、シャワーを浴びる。最初の十数秒は水しか出ず、歯をいしばって悲鳴をこらえる。それでようやく、目が覚める。シャワーを浴びながら、髭を剃る。――知っているか? 最近の髭剃りは五枚刃なんだぞ。水音を通して、ふいに父親の声が鮮やかに甦る。あれは亡くなる一年ほど前だったろうか、まだ外出する元気のあった父親が、ある日買い物から帰ってくるなりきみにそう言ったのだった。病状の見通しが暗いこと

  • 世界を始めるために終わる物語 - 蒸散する物語

    雑記 | 19:02 | それで物語が終わるということについてなんですけれども、といきなり書き出してしましましたが、それについて考えています。物語が好きなひとなら同意してくださるかと思うのですが、良い物語というのは、読んでいるときはこの先どうなるのかが気になってどんどん読んでしまう。けれどいざその物語が終わってしまうと、ひどく寂しくなりますよね。それが嫌だから、ほんとうはどんどん読み進めたいのだけれどわざとゆっくり読んだり、途中で読むのを措いたりする。でも物語っていうのは、始まりがあって終わりがあって、そこで初めてその物語世界が完結するものだから、どうしても終わらざるを得ない。というより、終わりまで読まざるを得ないんですね。当たり前です。小説を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり、それらはみな物語だとぼくは思うけれど、終わるのが嫌だからって途中でやめてそれっきりにして死んでいくひとは(考えて

    murashit
    murashit 2010/01/21
    カンガルー・ノート
  • いまだ名を得ぬ天才たちに - 蒸散する物語

    雑記 | 23:05 | 先日usauraraさんがひさしぶりにブログをアップなさっていて読んでいたとき、ふと心に引っかかるものがあり、何だっけなあと思っていたのだけれどようやく思い出しました。以前、ハコニワをやっていた時期にうささんがこのエントリーをお書きになって、面白かったのでぼくもそれについて書きますよ、と言ったのでした。もう一年以上前になるのか……。けれども、思い出したので書くのです。電子媒体からのインプットもアウトプットもカジュアルになっている現代は、普通の人がごく普通の生活の中で「表現行為を楽しむ」ことができる。私のようなただ絵や文章が好きなだけの人間が、ネットを介してそれらを「外に置く」ことが出来る。いまだに「勘違いして○○気取りで」という非難をする人があるが、その非難の仕方自体古い。○○気取りもなにも、ネットは既に誰でもが取るに足りない日常の断片を置ける場所なのだ。ぼくは結

  • 他者について考えるとき読んでほしい本 2/3『自分自身を説明すること ― 倫理的暴力の批判』 - 蒸散する物語

    雑記 | 00:41 | 先日、ゼミで学部生の発表を聞き、いつもと同じ違和感を感じました。基的には同じ研究室に所属しているわけですから、研究室のメンバーの問題意識は、ある程度共通性を持っています。ただ、それをどう解決していくか、その手段や方向性はさまざまに異なります。特に共生倫理をテーマにしている人々の発表を聞いていて思うのは、共生という言葉に対して抱いているイメージがぼくとはかなり異なっているなあ、ということです。問題はふたつあります。ひとつは、共生すべき人びととは誰なのかという点。そしてもうひとつは(先の問題ともつながっているのですが)そもそも人類に普遍的な質(いわゆる「人間性」と呼ばれるもの)があるのかどうかという点です。基的に彼らの主張には、共生とは身近な関係から始まるということ、そして人類にはある種の(善や正義の希求といった)普遍性があるということが暗黙的に了解されているよ

  • 他者について考えるとき読んでほしい本 1/3『ラディカル・オーラル・ヒストリー ― オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』 - 蒸散する物語

    雑記 | 20:03 | 以前にも何度か書いていますが、ぼくはいま、共生倫理と環境思想を学んでいます。ぼくらの社会が抱えている問題の根的な要因として、人間‐人間関係の、そして人間‐自然関係の崩壊があります(と言っても、ぼくはいまだかつてそれらが正常であった時代などなかったと思っていますし、そもそも正常って何だというのも胡散臭い話ですけれども)。そこでまずこれらを同一の視点から捉えること、つまり自然をも含めた他者とこの「私」との関係性について考察することから始めるというのが基的な方針です。とまあこれは相当に乱暴なまとめ方ですが、今回は自分の研究について書くことが目的ではありません。ぼくが学んできた中で、みなさんにぜひ紹介したいと思うについて書こうと思うのです。曲がりなりにも博士課程に身を置いているので、一応それなりに専門書を読むことになります。そして(べつだん全肯定する、ということでは

  • ニムロデの祈り - 蒸散する物語

    物語 | 21:18 | 1 射位に立ち、足踏みから胴造りへ。弓構えのまま目を閉じる。周囲からあらゆる音が消え、ぼくにはすでに的をまっすぐ射抜いた矢が見える。ぼくは弓であり、矢であり、同時に的だった。目を開き、打起しから引分け、会へと流れる。会は永遠に続き、離れは意志によってではなく、ただ時が満ちたが故に訪れる。放たれた矢は引き寄せられるように的の中心へ突き立つが、それはすでに起きていたことだ。残心の構えのまま、ぼくはすべてが一致し満たされていたあの永遠を惜しむ。  午前中の準決勝は順調に勝ち残り、結果はどうであれ残る決勝が高校における和弓の締めくくりとなる。勝てば二連覇となるが、不思議と緊張はなかった。もともと勝負にはあまり関心がないのも幸いしているのだろう。とは言え、勝てばそれだけ射られるのは嬉しい。ぼくが一年のころ弓道部はほとんど廃部寸前だったから、同学年はひとりもいない。今年も総体

  • 本の呼ぶ声 - 蒸散する物語

    物語 | 14:53 | を読むのが好きな子供だった。友人はいなかったが、それをさびしいと思ったことはない。世界にはぼくの知らないことが無数にあったけれど、一歩図書館へ入り手を伸ばせば、そこにはすべてに対する答えが、あるいは答えを求めるための手がかりが記されたがあった。身体の弱いちっぽけな子供だったけれど、他のどの子供も体験したことのないような冒険に、ぼくは頁を開くだけで旅立てるのだった。学校でも家でも、暇さえあればを読んでいた。たまに裏山をひとりで散歩することもあったけれど、見たことがない植物や昆虫をみかけたり、あるいはその生態などにふと疑問がわけば、ぼくはすぐに家に戻り、父の書斎にある百科事典や図鑑でそれを調べた。大学へ進んでもぼくのそんな性格に変りはなく、ただ、知りたいことが増えるのと同時に手が届くの数もまた一気に増えたことが純粋に嬉しかった。ぼくがに関してある種の才能を持

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