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ハプスブルク家に関するpengin-stellaのブックマーク (3)

  • ハプスブルク家の“最後の別れ” : ウィーン発 『コンフィデンシャル』

    2011年07月18日06:00 カテゴリオーストリア ハプスブルク家の“最後の別れ” 約640年間、中欧を支配してきたハプスブルク王朝の“最後の皇帝”カール1世の息子オットー・フォン・ハプスブルク氏(写真)の葬儀が16日、ウィーンのシュテファン大聖堂で行われた。葬儀にはスウェーデンからカール16世グスタフ国王夫、リヒテンシュタイン公国のアダム2世、ヨルダンのハッサン王子など世界の王室関係者、フィッシャー大統領、ファイマン首相らオーストリア政府首脳ら約1000人が参席。大聖堂前では1万人以上の市民がハプスブルク氏の最後を見送った。死者へのミサはオーストリアのローマ・カトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿が主礼を勤めた。 死者へのミサが終わると、長男カール・ハプスブルク氏ら家族が見守るなか、棺はグラーベン通り、コールマルクを経由して王宮へ。そして英雄広場を通過してリング通りに出、そこ

  • ハプスブルク家最後の皇太子の「警告」 | オピニオンの「ビューポイント」

    ウクライナのゼレンスキー大統領はドイツのメルケル前首相とフランスのサルコジ元大統領の政権時代のロシア政策を厳しく批判し、メルケル氏には、「ブチェに来て何が起きたかを自分の目で見ればいい」と指摘している。メルケル氏の16年間のロシア政策はロシアへの譲歩であり、プーチン大統領の野望を支援してきたというのだ。同大統領によると、メルケル氏とサルコジ氏は2008年、ブカレストで開催されたウクライナの北大西洋条約機構(NATO)首脳会談でウクライナの加盟を拒絶したことを意味する。その6年後、プーチン大統領はクリミアを奪い、14年後にウクライナに侵攻したわけだ。 ▲約640年間、中欧を支配してきたハプスブルク王朝の“最後の皇帝”カール1世の息子オットー・フォン・ハプスブルク氏(インタビューに応じるハプスブルク皇太子1990年5月、ウィーンで撮影) ところで、1990年代にプーチン氏を「欧州で最も危険な人

    ハプスブルク家最後の皇太子の「警告」 | オピニオンの「ビューポイント」
  • 慶應義塾大学出版会 | 赤い大公 | ティモシー・スナイダー 池田年穂

    ハプスブルク、再興の夢 ヒトラーとスターリンのはざまで、ウクライナ王になることを夢見た ヴィルへルム・フォン・ハプスブルクの数奇な運命と、 20世紀ヨーロッパ史の深暗部を鮮やかに描ききる不世出の歴史家、ティモシー・スナイダーの傑作。 華麗と虚飾に満ちた19世紀末――。ハプスブルク家の末裔としてこの世に生を享けたヴィルヘルム・フォン・ハプスブルクは、第一次世界大戦期にハプスブルク帝国陸軍将校を務め、君主国の版図のなかで、ウクライナ・ハプスブルクの創設を夢見た。策略が失敗に終わり、パリに遁走した1920年代には、高貴な生まれの鼻つまみ皇族としての淫蕩な日々を過ごし、30年代にはヒトラーに傾倒して、ファシストになったかと思えば、一転して、ナチス・ドイツとソ連に対してスパイ活動を働き、戦後、キエフの牢獄で悲惨な死を遂げた。 ヒトラーとスターリンのはざまで、ウクライナ王になることを夢見、ハプスブルク

    慶應義塾大学出版会 | 赤い大公 | ティモシー・スナイダー 池田年穂
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