タグ

廃藩置県に関するpengin-stellaのブックマーク (2)

  • 県名「三重県」の誕生

    明治5年(1872)3月(ただし旧暦)に、はじめて「三重県」という県名が使用されたということです。 当時、今の三重県の区域は、津の南を流れる相川を境に南北二つの県に分かれていました。それぞれの県庁が安濃郡津大門町と度会郡山田岩淵町に置かれていたことから、安濃津県・度会県と県名がつけられていたのでした。 ところが、安濃津県の県庁は、県境に近くあまりにも南に寄りすぎているとか、四日市の方が交通や郵便に便利であるとかいった理由で、県庁が、津から三重郡の四日市に移転することになったのです。この県庁の移転が完了したのが明治5年3月28日で、県名も県庁所在地の名をとるのを原則としていましたから、この時から三重県の名が使われたわけです。( 県名の改称は 3月17日付け) 次に、翌6年になると、県庁として利用していた建物(四日市陣屋跡)が狭いことや、さらに南の度会県との合併のきざしも出ていたことなどから、

  • 現在の三重県の成立経緯。特に、もともと紀伊国であった東牟婁郡が、和歌山県ではなく三重県となった経緯。... | レファレンス協同データベース

    現在の三重県の成立経緯。特に、もともと紀伊国であった東牟婁郡が、和歌山県ではなく三重県となった経緯。 過去、聞いた話では、ほかの県と面積を釣り合う形にするために伊勢国に取り込んだという説を聞いたことがあるが、そうした資料はあるのか。 また、かつて東牟婁郡の和歌山県編入運動は存在したのか。 現在の三重県の設立経緯は、『三重県の歴史』(山川出版社 2000)p.2に、「三重県は、伊勢国のうち阿濃郡以北の八郡と伊賀国を管轄する三重県(県庁所在地、当初三重郡四日市、明治6(1873)年、津へ移転)、それに紀伊国牟婁郡の東半分、伊勢国一志郡以南の五郡、志摩国を管轄した度会県が明治9年4月、府県統廃合により合併、成立した。県名は旧三重県名を継承し、県庁所在地も同じく津におかれた。」とありました。 紀伊国牟婁郡の一部が三重県となった経緯については、鵜殿村村史編さん委員会/編集『鵜殿村史 通史編』(鵜殿村

    現在の三重県の成立経緯。特に、もともと紀伊国であった東牟婁郡が、和歌山県ではなく三重県となった経緯。... | レファレンス協同データベース
  • 1