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ブックマーク / www.ndl.go.jp (4)

  • 第1章 前史 ブラジル移民がはじまるまで(2) | ブラジル移民の100年

    1887年(明治20)6月に福沢諭吉門下の井上角五郎が米国のシエラネバダに土地を購入して広島県人30余人を連れて入植したことや、1889年(明治22)に荒井達爾が熊県人50人を連れて米国ワシントン州に入植したことがあるが(いずれも不成功に終わっている)、この時期までの移民は、いずれも資教育もない貧困にあえぐ国民が、出稼ぎ目的で鉱山や農場の過酷な労働に携わるものであった。 1892年(明治24)5月外務大臣となった榎武揚は、このような出稼ぎ目的の移民の送出しではなく、日の資により外国で土地を購入または借用し、移民を入植・開墾・定住させる殖民論を唱え、それを実現するため外務省における移民課の設置、移住適地調査といった施策を実施しようとした。だが、榎の外務大臣退任後、この政策は引き継がれなかった。 榎個人としては、外相辞任後の1893年(明治26)2月、自らの理想を実現するため殖

  • 幸徳秋水|近代日本人の肖像

    幸徳 こうとく 秋水 しゅうすい 生没年 明治4年9月23日 〜 明治44年1月24日 (1871年11月5日 〜 1911年1月24日) 出身地 高知県 職業・身分 ジャーナリスト 、 社会運動家 別称 伝次郎(名) 解説 社会主義者。土佐の自由民権運動の中で育つ。明治21(1888)年に上京して中江兆民の学僕となり、兆民より「秋水」の号を授かる。『自由新聞』等の記者を経て31(1898)年万朝報社に入社、同年に社会主義研究会へ入会。34(1901)年に『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行、更に安部磯雄らと社会民主党を結成。36(1903)年に『社会主義神髄』発表後、堺利彦らと『平民新聞』を発刊。同誌で「与露国社会党書」や『共産党宣言』(翻訳)を発表し、38(1905)年に投獄される。出獄後に渡米、39(1906)年に社会革命党を結成。帰国後演説会や新聞で直接行動論を展開。42(1909)年

    幸徳秋水|近代日本人の肖像
  • 小山内薫|近代日本人の肖像

    小山内 おさない 薫 かおる 生没年 明治14年7月26日 〜 昭和3年12月25日 (1881年7月26日 〜 1928年12月25日) 出身地 広島県 職業・身分 芸術家 解説 劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業した翌年、明治40(1907)年に第1次『新思潮』を創刊し、劇文壇に新風を吹き込む。42(1909)年に2世市川左団次を迎えて自由劇場を結成、ヨーロッパ近代劇の導入による新劇運動を起こした。その後は渡欧、市村座の幕内顧問、松竹撮影所長を経て、大正13(1924)年土方与志らとともに新劇最初の有形劇場である築地小劇場を設立した。同劇場は新劇の演出、演技、舞台技術の基礎を築き、日演劇に大きな影響を与えた。昭和2(1927)年ロシア革命10周年記念祭に招聘され参加、翌年築地小劇場の上演慰労会の席上、急逝した。 関連資料 直筆原稿 『』 『』 著作 『』 全集 『』

    小山内薫|近代日本人の肖像
  • 2. 中江兆民と自由民権運動の諸相 | 近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流

    第1章 政治・法律 2. 中江兆民と自由民権運動の諸相 フランス政治思想への関心は、単に学問的なものにとどまらず、政治運動にも大きな影響を与えた。自由民権運動がそれである。自由民権運動は、明治7(1874)年、江藤新平(1834-1874)、板垣退助(1837-1919)、後藤象二郎(1838-1897)、副島種臣(1828-1905)らが「民撰議院設立建白書」を左院に提出したことに始まる。彼らは政府の「有司専制」を批判し、民選議院の設立を要求したほか、地方自治・地租軽減・不平等条約改正・言論の自由などを掲げて政府に対立した。当初は士族を中心とした運動であったが、次第に一般民衆にまで広がった。節においては、自由民権運動に関わった人々の中から、「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民(1847-1901)、大井憲太郎(1843-1922)、植木枝盛(1857-1892)らを取り上げ、自由民権運動

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