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ブックマーク / howardhoax.blog.fc2.com (4)

  • The Red Diptych 破壊と変容――大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』

    大江健三郎という作家は、個々の作品を評価することと、作家としての全体像の評価が必ずしも一致しない……そんなタイプの作家であると思う。  それはなぜかと言えば、その作家生活の過程で小説そのものに対する原理的な検証を積み重ね続けた結果、作風が変遷し続けているからだ。まったく、これほどまでに、文体の水準からして根的に作風が変わり続ける作家というのも珍しい。何も予備知識のない状態で最初期の小説と最近の小説を読み比べてみたならば、同一人物の作品とわかる人はほとんどいないのではないかとすら思える。  だから、大江健三郎の場合、「ある特定の大江作品」を評価することと、「大江健三郎という作家」を評価することとは、必ずしも、うまくかみ合うものではない。そこには、尋常の作家では考えられないような、巨大な乖離がある。……例えば、『万延元年のフットボール』は、極めて優れた作品である。それは、それが書かれた時点で

  • The Red Diptych ヒーローにとってリアリティとは何か――フランク・ミラーのヒーロー像・再考

    最近思うんだが……やはり、ヒーローもののフィクションにおいては、そもそもリアリティを強調する路線はあまり向いていないのではなかろうか。今のマーヴル・スタジオズによるヒーロー映画を見るにつけ、あの成功の秘訣は、リアリティの強調を潔くばっさり削ぎ落として、ヒーローもののオーソドックスな王道を堂々と行っていることにあるように思えるのだ。  だいたい、ヒーローもののフィクションの世界を成立させるために必要な設定の大半は、どう考えても荒唐無稽な、全くの絵空事である。しかし、様々な状況が重なった結果としてアメコミのメインストリームが長い間に渡ってヒーローもの中心であったゆえに、その枠組みが強固に守られたままで内部の世界でのストーリーテリングが発達することになった。  その結果、八十年代に至って、リアリティを大幅に取り込んだ上でのヒーローフィクションが、ある方向での到達点に達することになった。具体的に言

  • The Red Diptych 例えばの話

    例えばの話ですよ。  あるところに、A村という、小規模ではありながらも美しい景色に恵まれた村が、山奥にひっそりと存在していました。そこでは、心優しい村人たちが、とりたてて大きな事件こそないものの、争いごともなく、平穏な日々をのどかにすごしていました。  そんなA村が、あるとき、山を一つ越えた向こうにあるB村と、野球の対抗戦を開催することになりました。舞台となるのは、A村の村営球場です。B村から代表の選手たちが派遣されてきて、いざ試合が実施されることになりました。  さて、いざ野球の対抗戦を実施することになったA村ではありますが、村人たちは、「野球」という競技の存在を、ごく最近になって知ったばかり。そのため、村人たちの中でも、その正式なルールを細かく把握している人は、あまりいませんでした。  そんな中、いよいよ対抗戦の日を迎えました。移動にだいぶ手間がかかるB村から訪れた観客はあまりいなかっ

    nebokegao
    nebokegao 2014/03/17
    「歴史的な蓄積を経て形成されたルールがあるからこそ、いちいちその場その場でイレギュラーな事態への対応をその都度考える必要もないわけです」
  • The Red Diptych 短篇小説家としてのフランツ・カフカ

    カフカが自作の小説を親しい知人に朗読する際に、爆笑していたことがある……という逸話を知って、ずいぶん驚いたことがある。  むろん小説などというものはどう読んでもいいのだが、ことカフカに関しては、読解に関して強いイメージが定着してしまっていることも事実である。とりわけ『審判』や『城』などのような謎めいた長篇が文学史上で多大な重要性を認められることによって、その作品世界は、「不条理」とか「実存」などといった言葉で形容される、いかにも深刻で重々しい佇まいを持ってしまっている。  しかし、である。カフカの長篇小説の全ては死後に発表された遺稿であり、なおかつ、その多くは未完である。さらに、死の間際のカフカ自身は、自分の遺稿を焼き払うように依頼しているのだ。このときのカフカの言葉がどれほど気のものであったのかについても議論が積み上げられているわけではあるが……ただ、少なくとも、当に遺稿が焼き払われ

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