南北朝の混乱と朝鮮半島のパワーバランス 「魏志倭人伝」として有名な、卑弥呼が魏に貢ぎ物を送る前、漢時代の1世紀頃から日本列島から中国への貢ぎ物の記録は始まっている。 日本が縄文時代だったころ、すでに中国には巨大な国家があった。日本人は朝鮮半島と交流を通して、中国最先端文化と情報を入手し、その先に巨大な国家があることを知っていた。あくまで日本は文明国家中国の周辺部族であった。そして日本にある程度の権力群が生まれたとき、中国に承認されるステイタスを求めて貢ぎ物をはじめる。 そして時代は魏呉蜀の三国時代から晋、そして南北朝の騒乱時代となると中国は内政で手いっぱいとなる。そのころ朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済、そして日本では近畿のヤマト朝廷が北九州権力を押さえつつあり、朝鮮半島周辺は四強のパワーバランスで成り立っていた。 北部の高句麗は中部の新羅と百済へ侵略を計る。新羅と百済は高句麗対応では協力し