←「少年サンデー」1971年3月21日号「へんな芸術」特集に掲載されたダダカン師の写真。撮影/羽永光利、「Quick Japan」96年2月vol.6に再掲。 昨日、日帰りで仙台に行き、ほぼ9年ぶりにダダカンこと糸井貫二師にお会いしてきました。96年に俺が「クイック・ジャパン」でダダカン師を取材し、98年の拙著『篦棒(ベラボー)な人々』に収録したのですが、それがこの12月に河出書房新社から文庫化されるため、挨拶に伺ったのです(文庫発売は10月と告知してましたが、諸事情で12月初旬になりました)。 ダダカン師は日本におけるハプニング・アート、全裸行動芸術の開祖的存在であり、1964年の東京オリンピックに刺激を受け銀座の路上で丸めた新聞紙で赤フンドシをくるんだものを聖火に見立ててて全裸で走り、お巡りさんに捕まったり、1970年の大阪万博で太陽の塔を赤軍派が占拠した事件のときには、数百人の機動隊
辞意表明だそうで。 いや、びっくりいたしました。 つまり、昨日の所信表明は自慰だった、と。 で、明日からは爺。 若き引退老人としての長い静かな老後。 ちょっとうらやましいな。 官房長官、幹事長など、党幹部が異口同音に「健康問題」を示唆しているのが興味深い。 つまり、アソーさんやヨサノさんからしてみれば、 「せめて、《主治医と相談した結果、国政の重圧を担うに足る体調では……》ぐらいな言い訳はしとけよ」 という気分があるのだと思う。 ウソであれ言い逃れであれ、一国の首相が職と引き換えに残した言葉であれば、記者諸君も、しつこく問いただしたりはしない。 ああ、そう、病気なら仕方がないよね。 と、世間も、一応の納得はしただろう。 なのに、今日の記者会見では、その、お約束の弁解さえ使わず、カタチだけの謝罪さえ述べなかった。 これでは「投げ出した」と言われても仕方がない。 登校拒否とか、ちゃぶ台返しと言
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