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10cに関するshig-iのブックマーク (33)

  • [特別寄稿]五節舞姫をのぞき見した花山天皇/榎村寛之

    ひさしぶりに平安時代を舞台とする大河ドラマ『光る君へ』がはじまり、一大ムーブメントが沸き起こっています。でも、ちょっと待って。背景を知れば、もっと楽しく味わえるはず。『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』を刊行したばかりの榎村寛之さんにエッセイを寄稿して戴きました。(なお、榎村さんのエッセイは下記もご覧下さい) 坂東巳之助さん演じる円融天皇と郷奏多さん演じる花山天皇は…オジとオイ?複雑すぎる『光る君へ』前後の天皇と藤原氏の関係を日史学者が整理 『光る君へ』宮廷政治の立役者!町田啓太さん演じる公任ら「一条朝の四納言」登場も<90歳まで現役>ロバート・秋山さんの実資はさらにデキる官人だった…日史学者が整理 天皇の即位と三種の神器 大河ドラマ『光る君へ』を見ていて、上手く演出しているなぁ、でも少し補足が必要かなあというところがしばしばある。 1月28日の放送分でいえば

    [特別寄稿]五節舞姫をのぞき見した花山天皇/榎村寛之
    shig-i
    shig-i 2024/02/20
    花山天皇いなかった?
  • 貧乏学者の娘・紫式部と右大臣家の御曹司・藤原道長の本当の関係は?(倉本 一宏)

    2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる!             *倉氏による連載は、今後月1、2回程度公開の予定です。 平安貴族が主人公 いよいよNHKの大河ドラマとしてはじめて平安貴族を主人公とした「光る君へ」が始まる。合戦や殺人が(ほとんど)描かれない平和で雅なドラマが一年間続くことは、残虐なシーンに辟易していた身にとっては、ありがたいことであると同時に、平安時代に対する世間の誤解も、少しは解消していただくチャンスであると考えている。 私も時代考証を仰せつかっているので、ここではドラマ自体への論評や感想には言及しないこととする。ドラマはあくまで、大石静さんの脚に基づき、内田ゆきさんをはじめとするスタッフの懸命な努力、俳優陣

    貧乏学者の娘・紫式部と右大臣家の御曹司・藤原道長の本当の関係は?(倉本 一宏)
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    shig-i 2024/01/07
    倉本一宏氏の連載
  • 天皇の離宮「雲林院」平安期の規模示す新たな遺構発見か 京都|NHK 京都府のニュース

    shig-i
    shig-i 2023/09/13
    冒頭で強引に大河の番宣してる
  • 最古の鬼門除けか 人面描いた土器、平安京の貴族邸跡から発掘|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    平安時代の貴族邸宅の庭池跡で見つかった人面墨書土器。鬼門除け遺物の最古例の可能性もある(京都市中京区) 平安時代中期ごろ、貴族邸宅の寝殿造(しんでんづくり)があった京都市中京区の発掘調査で、「鬼門除(よ)け」のためとみられる人面墨書土器が見つかった。 鬼門は、陰陽(おんみょう)道で鬼が出入りするとされる北東の方角で、古来、家を造る時などはこの方角に魔除(まよ)けを配してきた。今回見つかったのは、人の顔を描いた平皿で、作庭の禁忌を避ける祭祀(さいし)遺物の可能性がある。専門家は「現代の京都のまちに伝わる鬼門除けの最も古い考古的実例ではないか」と指摘している。 調査した民間会社によると、太政大臣・藤原実頼(さねより)が「小野宮」を再開発した際、敷地北東側に当たる庭池の景石そばに埋めたとみられる。

    最古の鬼門除けか 人面描いた土器、平安京の貴族邸跡から発掘|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
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    shig-i 2021/06/27
    実頼の小野宮
  • パネル展「将門と忠常」

    パネル展「将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-」 開催概要 千葉氏は、平安時代の終わりから戦国時代まで下総国(現在の千葉県北部・茨城県の一部)を支配し、今日の千葉市の礎を築いた武士の一族です。 展では、千葉氏と深い関わりを持つ二人の武将「平将門」と「平忠常」と、彼らが関東で起こした反乱を通じて、千葉氏のルーツを探ります。 開催期間 5月27日(水曜日)~7月12日(日曜日) 会場 郷土博物館1階展示室 配布資料 配布資料(PDF:936KB)←ここからダウンロードしてください。 展示会場の様子 ページの先頭へ戻る 企画展のページへ

    パネル展「将門と忠常」
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    shig-i 2020/07/09
    12日まで
  • 蘇東坡の旧居跡から宋代以降の遺構 500点以上の遺物が出土 四川省

    蘇東坡旧居跡の宋代以降の遺構から出土した陶俑(2019年11月27日撮影)。(c)Xinhua News 【12月17日 Xinhua News】中国四川省(Sichuan)眉山市(Meishan)の三蘇祠(さんそし)博物館は6日、館内の建物の一つ、式蘇軒文物庫房でこのほど行われた改築工事で宋代以降の遺構が見つかり、約3カ月間の緊急発掘調査の結果、500点以上の遺物が出土したと明らかにした。 「三蘇」とは、北宋(960~1127年)時代に活躍した文人、蘇洵(Su Xun)とその息子、蘇軾(Su Shi)、蘇轍(Su Zhe)兄弟を指す。いずれも唐から宋の著名な詩文家「唐宋八大家」の一人に数えられており、中でも蘇軾は蘇東坡(Su Dongpo)とも呼ばれ、日でも広く知られている。 眉山は古く眉州と呼ばれ、蘇氏父子の故郷として知られる。同地には父子にまつわる遺跡も多く、特に蘇東坡に関係する大

    蘇東坡の旧居跡から宋代以降の遺構 500点以上の遺物が出土 四川省
  • 中国、遼王朝の墓に金メッキ冠 騎馬民族の側室 - 共同通信 | This Kiji

    騎馬民族王朝「遼」の第6代聖宗の側室の墓から見つかった銀地に金メッキを施した冠。遺体が身に着けていたものとみられる(内蒙古文物考古研究所提供) 中国・内モンゴル自治区で10~12世紀に繁栄した騎馬民族王朝「遼」の第6代聖宗の側室の墓が見つかり、銀地に金メッキを施した冠やガラスのコップなど豪華な副葬品が出土したと、中国側と共同で副葬品を調査した帝塚山大(奈良市)などのチームが19日、発表した。 墓は2015年に見つかり、現地の研究機関が発掘したところ、墓誌銘から993年に24歳で亡くなった側室のものと判明。盗掘されており、遺体は木棺内のブーツに残っていた足の指の骨だけだったが、ガラス器、金メッキの冠などが出土した。 調査成果は25日、奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)の学術報告会で発表される。

    中国、遼王朝の墓に金メッキ冠 騎馬民族の側室 - 共同通信 | This Kiji
  • くるま橋遺跡:完全な形「金銅仏」出土 現地説明会に200人 /栃木 | 毎日新聞

    とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センターは、くるま橋遺跡(真岡市石島)の発掘調査を行い、竪穴住居跡から10世紀(平安時代中期)に作られたとみられる「金銅仏」を発見した。同センターは「これほど精巧につくられた平安時代の仏像が土の中でほぼ完全な形で出土するのは奇跡的」と評価している。3日には現地説明会が開かれ、市民ら約200人が訪れた。 くるま橋遺跡では、古墳時代から平安時代の古墳やムラの跡が確認されていた。今回の発掘調査は遺跡近くを通る県道拡幅工事に伴い、昨年9月から4050平方メートルを対象に実施された。

    くるま橋遺跡:完全な形「金銅仏」出土 現地説明会に200人 /栃木 | 毎日新聞
  • <骨寺村荘園遺跡>昨年発見の建物遺構、平安時代の築造か | 河北新報オンラインニュース

  • 和歌刻まれた土器出土…全国初、10世紀中頃か : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    山梨県甲州市は25日、同市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)にある平安時代の「ケカチ遺跡」から、和歌1首が刻まれた土器が出土したと発表した。 京の都から和歌や仮名文字が広がり始めた10世紀中頃に作られたとみられ、専門家は「和歌などの貴族文化が地方にも広がっていたことを示す貴重な史料」と話している。 平安時代の土器は、墨で地名などが書かれたものの出土例が多く、京都市の平安京跡で出土した土器には、平仮名の「いろは歌」のほぼ全文が墨で書かれていた。今回の出土品は焼く前の土器に文字を刻んでおり、甲州市教育委員会は「和歌を丸々1首刻んだ土器の発見は全国で初めて」と説明する。

    和歌刻まれた土器出土…全国初、10世紀中頃か : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに:朝日新聞デジタル

    山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られ

    和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに:朝日新聞デジタル
  • 梶子遺跡:1100年前の木簡出土 平安中期の行政示す 浜松 /静岡 | 毎日新聞

  • 竪穴建物の屋根は「かやぶき」か 大館・片貝家ノ下遺跡|さきがけonTheWeb

  • [今日は何の日]平将門命日 | 博物月報

    940(天慶3)年の今日、下総国猿島郡(茨城県)で討たれた。平将門は農耕期を前に兵士の大半を村に帰らせ、側近などわずかな兵のみを手元に置いていたが、この隙を突いて藤原秀郷・平貞盛らが4000の軍勢で攻め込んで、あえない最期を遂げたとされる。 だが、実は最後の決戦の時もかなりの接戦だったようだ。 飛び道具が弓矢しかない時代、合戦には風向きが重要だったが、当初、将門側に強い追い風が吹いていた。さらに当時の伴類(ゆるやかな同盟軍)は不利になると逃げ出してしまう。追い風を利用した将門の猛攻を受け、秀郷・貞盛軍の伴類2900人が逃げ出し、残ったのはわずかに精兵300人(川尻秋生『平将門の乱』吉川弘文館、2007年)。 一時は、200人対300人ぐらいの戦いだったらしい。この時点ではどう転ぶかわからなかったが、夕方になって風向きがかわり勝敗が決した。最期は一閃の矢が将門のこめかみを射ったという。 俵藤

    [今日は何の日]平将門命日 | 博物月報
    shig-i
    shig-i 2015/02/14
    2月14日は平将門の命日
  • 大村市・竹松遺跡 平安期の紡錘車出土 「木」「都」の漢字 「彼杵郡の港」の意か / 西日本新聞

    大村市・竹松遺跡 平安期の紡錘車出土 「木」「都」の漢字 「彼杵郡の港」の意か 2013年6月8日 00:27 カテゴリー:九州 > 長崎 大村市の竹松遺跡で出土した「紡錘車」。右側部分に「都」と、上下が反転した「木」の文字が刻まれている 県教委は7日、大村市の竹松遺跡で、平安時代の地層から糸を紡ぐ器具「紡錘車(ぼうすいしゃ)」が出土し、「木」と「都」の漢字が刻まれていたと発表した。器具は滑石製の円形で直径約4・5センチ。県教委は刻まれていた「木」は「杵」、「都」は「津」とみており、「彼杵郡の港」の意味としている。 県教委は、竹松遺跡の周辺には古代の郡の役所「郡衙(ぐんが)」があったと推測しており、関連が考えられる資料の発掘は初めてという。県教委は「文字資料は、遺跡周辺が人々が集まる郡の中心だったことを物語る貴重な資料」としている。 今回、竹松遺跡からはほかにも、人名とみられる「有家」

  • 大村・竹松遺跡:古代・彼杵郡衙物語る 文字刻む紡錘車出土 /長崎- 毎日jp(毎日新聞)

  • 古文書に謎の“猿顔”スタンプ NHKニュース

    宮内庁の書陵部が所蔵している書物の中に、国宝に指定されている平安時代の古文書「北山抄(ほくざんしょう)」の写が保管されていたことが分かりました。 裏には、珍しい猿の顔のようなスタンプが押されていて、宮内庁では「詳しいことは分からず、謎だ」としています。 「北山抄」は平安時代中期の学者、藤原公任が編さんした宮廷社会の儀式の指南書で、合わせて10巻あり、京都国立博物館にある原や、その写が国宝に指定されています。 宮内庁の書陵部では、昭和32年に藤原摂関家の1つの九条家から購入したおよそ1万点の古文書の整理を続けていましたが、このほど、そのうちの一部が「北山抄」の写の断片であることが分かりました。 この写は、書体や紙の質などから平安時代のもので、貴重な発見だということです。 また、文書の裏には縦2センチ、横2.5センチほどの猿の顔のようなスタンプが押されていました。 同じようなスタンプ

    shig-i
    shig-i 2013/04/11
    九条家文書から北山抄の新たな写本
  • 青谷横木遺跡:役所書類か、木簡発見 「駅家」の存在暗示−−鳥取 /鳥取- 毎日jp(毎日新聞)

  • 蝦夷の防御性集落か 野田・新館遺跡の発掘調査

  • 檜隈寺周辺遺跡 平安後期の巨大柱根 : 奈良 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    明日香村檜前(ひのくま)の檜隈(ひのくま)寺周辺遺跡で、平安時代後期(10~11世紀)の直径約0・7メートルの巨大な柱根(柱の最下部)二つが並んで見つかった。奈良文化財研究所の調査で出土した。太さは奈良市の唐招提寺金堂の列柱並み。檜隈寺(7世紀後半)を氏寺にしたとされる渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の子孫が儀式で立てた柱の跡の可能性が高いという。 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備に伴う発掘調査で、同寺の塔跡の南約100メートルで、1辺1・5~1・8メートル四方の柱穴2基が2メートル間隔で出土。内部に高さ約1メートルの柱根が残っていた。 方位や位置などから檜隈寺の創建時ではなく、寺の塔跡に10~11世紀に建てられた十三重石塔(重要文化財)に関連する柱で、儀式用の旗を付けた竿を立てた支柱とみている。竿の高さは不明だが、かなりの高さがあったらしい。 「日書紀」には620年、各氏族が