一九八七年三月、日本経済がバブル景気に突入する中、日本の製糸場を代表する灯がひっそりと消えた。生糸(きいと)生産で日本の近代化を支えた富岡製糸場(群馬県富岡市)のバトンを、民間企業として最後に継いだ片倉工業(東京)の富岡工場の閉所式。「時に利あらず」。社長だった柳沢晴夫さん(故人)は従業員約百人を前に、悔しさをにじませた。 (大沢令) 同工場の生糸生産は七四年度をピークに絹需要の減少などが経営の重しとなっていた。当時の労働組合幹部は「蚕糸部門は赤字の状態が続いていた。持ちこたえる限界を超えていた」と証言する。 操業停止後、当時富岡市長の広木康二さん(85)は東京の本社に柳沢さんを訪ねた。「国の文化財に」と考えていた県幹部の意向を内々に打診した。「片倉ある限り、企業の責任において売らないし、貸さない。壊しもしません」。柳沢さんはきっぱりと答えた。