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13cに関するshig-iのブックマーク (10)

  • 海底で見つけた元寇船を引き揚げたら「軍事編成の研究できる」…弘安の役750年向け研究者意欲

    【読売新聞】  元寇 ( げんこう ) の舞台として知られる長崎県松浦市・鷹島沖の鷹島海底遺跡での発掘調査について、国学院大の池田 栄史 ( よしふみ ) 教授(水中考古学)による成果報告会が島内で開かれた。昨年10月に海底で確認し

    海底で見つけた元寇船を引き揚げたら「軍事編成の研究できる」…弘安の役750年向け研究者意欲
  • 「聖徳太子立像」の胎内に菩薩半跏像 奈良国立博物館が発表 | 毎日新聞

    今年で没後1400年を迎えた聖徳太子ゆかりの「成福寺(じょうふくじ)」(奈良県斑鳩町)に伝わる国重要文化財「聖徳太子立像」(高さ約84センチ、13世紀)をX線CTスキャンで調べたところ、胎内から木造の「菩薩半跏(ぼさつはんか)像」(高さ約6・5センチ)が見つかった。調査した奈良国立博物館が25日、発表した。 聖徳太子立像は、16歳の太子が父用明天皇の病気の回復を願って祈りをささげる姿とされる。菩薩半跏像は宝冠をかぶり、右手のひらを頰に近づけ左足を垂らして座る姿で、太子の建立と伝わる「四天王寺」(大阪市天王寺区)の尊「救世(くせ)観音像」と同じポーズだった。また、一般的な「如意輪観音」と同様、岩をかたどった台座に安置されていた。

    「聖徳太子立像」の胎内に菩薩半跏像 奈良国立博物館が発表 | 毎日新聞
    shig-i
    shig-i 2021/02/25
    東京にくるのかな
  • 定家による古典写本の意味 美川圭氏 ソフィア 京都新聞文化会議|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    みかわ・けい 1957年生まれ。専門は日中世史。摂南大教授などを経て現職。冷泉家時雨亭文庫の調査に携わる。主な著書に「公卿会議」(中公新書)「後三条天皇」(山川出版社)など。 つい最近新聞の一面を飾った「定家・源氏物語『若紫』の発見」。所蔵者から冷泉家に持ち込まれ、長く定家系統の源氏物語を追い求めてこられた藤孝一氏(冷泉家時雨亭文庫調査主任)の鑑定がなされたことも感慨深い。というのも、私は大学院生時代、藤氏のもとで、調査員として冷泉家に出入りをさせていただいていたからである。 今回、最初に目に飛び込んできた『若紫』写の特徴ある字体は、私が冷泉家でなじんできた定家自筆『明月記』(藤原定家日記原、国宝)の字体とうり二つであった。 定家の字体は、後世「定家様」と呼ばれ、書道の世界で尊ばれるようになった。それは、従来の平安時代の流麗な文字とは違う、ごつごつした独特なものである。定家

    定家による古典写本の意味 美川圭氏 ソフィア 京都新聞文化会議|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
  • 定家が宮仕えにため息 碧南の美術館で日記の一部発見:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)

    小倉百人一首の撰者(せんじゃ)として知られる歌人藤原定家(一一六二~一二四一年)がつづった日記「明月記」の原の一部が愛知県碧南市で見つかった。これまで確認されていなかった記述があり、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した歴史的な歌人の横顔がうかがえる。 明月記は定家が十八歳から七十四歳までの日記で、宮廷の社会や文化、所感を記した。冷泉家時雨亭文庫(京都市)が原の大部分を所蔵し、二〇〇〇年に国宝に指定された。原から離された断簡(断片)が各地に伝わり、山形、島根各県では県指定文化財となっている。 見つかった断簡は、一四年に碧南市藤井達吉現代美術館に寄贈された「石川三碧(さんぺき)コレクション」に含まれていた。同市浜寺町でみりん醸造「九重味淋(みりん)」を営む石川家の二十五代、三碧(一八四四~一九二三年)が収集した掛け軸や屏風(びょうぶ)など約百点の総称で、寄贈前は江戸時代に建てられた蔵で保

    定家が宮仕えにため息 碧南の美術館で日記の一部発見:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)
    shig-i
    shig-i 2018/09/15
    明月記の断簡
  • モンゴル帝国期の仏像か チンギスハンの遺跡で出土 - 日本経済新聞

    龍谷大(京都市)は5日までに、13世紀にモンゴル帝国を築いたチンギスハンの軍事拠点とされるハルザンシレグ遺跡(モンゴル)で、仏像の手や足とみられる遺物が出土したと発表した。モンゴル帝国時代の仏像はほとんど見つかっておらず「非常に珍しい」としている。日とモンゴルの合同調査隊が昨年9月に発見した。粘土製で、足のサイズ(約27センチ)などから、元は高さ180センチ程度の等身大の像だったとみられる。

    モンゴル帝国期の仏像か チンギスハンの遺跡で出土 - 日本経済新聞
  • 藤原定家:日記の「赤気」はオーロラ 極地研などが解析 | 毎日新聞

    南極の昭和基地で観測された赤いオーロラ。藤原定家の明月記に「赤気」として記録されている=国立極地研究所提供 平安・鎌倉時代の歌人、藤原定家(1162~1241年)が日記「明月記」に書き残した「赤気(せっき)」という現象は、太陽の異常な活発化によって京都の夜空に連続して現れたオーロラだった可能性が高いと、国立極地研究所や国文学研究資料館などのチームが米地球物理学連合の学術誌に発表した。連続したオーロラの観測記録としては国内最古という。 明月記には、1204年2~3月にかけて、京都の北から北東の夜空に赤気が連続して現れ、定家は「山の向こうに起きた火事のようで、重ね重ね恐ろしい」と書き残している。

    藤原定家:日記の「赤気」はオーロラ 極地研などが解析 | 毎日新聞
  • お知らせ : 京都新聞

    File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから

  • 小川の下里・青山板碑製作遺跡、国史跡に指定へ 文化審が答申

    国の文化審議会(宮田亮平会長)は20日、小川町下里の下里・青山板碑製作遺跡を国の史跡に指定するよう、下村博文文部科学相に答申した。近く答申通り告示される。県内の国指定史跡は19件になり、板碑の製作遺跡は初めて。全国の史跡は1733件となる。県教育局生涯学習文化財課は同遺跡について「板碑の生産と流通だけでなく、板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺跡」としている。 同課によると、同遺跡は鎌倉から戦国時代にかけて関東に広く流通した「武蔵型板碑」の製作遺跡。板碑は中世(13世紀初めから16世紀末まで)につくられた石塔の一つで、墓標や記念碑としてではなく、何らかの供養を行うための卒塔婆として建てられた。関東では13世紀ごろから製作が盛んになったという。 小川町は板碑石材の有力な産出地とみられており、2001年に同町下里で加工石材が採集された。同町教育委員会は12年の格調査で、採掘の可

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  • asahi.com(朝日新聞社):定家自筆の手紙、裏に「明月記」? 徳川美術館調査 - 文化

    藤原定家自筆書状=徳川美術館提供藤原定家自筆書状(冒頭部分)=徳川美術館提供  「小倉百人一首」を選んだ歌人、藤原定家(1162〜1241)の自筆の手紙が発見された。裏面ははぎとられているが、表に残った字の跡や紙の形状などから、定家の日記「明月記」の一部が書かれていたとみられる。関係者は「重要文化財級」と話している。  愛知県内の個人が所蔵していたもので、徳川美術館(名古屋市東区)の調査で明らかになった。タテ31.4センチ、ヨコ95.8センチで、表装されている。「定家様(ていかよう)」と呼ばれる独特の筆跡や、末尾にある「五旬病者家」という署名から、定家の自筆と判定された。「五旬」は「五十」を意味することから、定家が50代だった1210年代の手紙とみられる。  内容は、民部卿(きょう)などを務めていた定家が、後鳥羽上皇の行幸の準備について頭弁(とうのべん)という役職者に問い合わせたものと読め

    shig-i
    shig-i 2009/04/03
    内容は、民部卿(きょう)などを務めていた定家が、後鳥羽上皇の行幸の準備について頭弁(とうのべん)という役職者に問い合わせたものと読める
  • 神戸新聞|社会|性空上人坐像頭部に遺骨 書写山円教寺の開祖

    性空上人坐像頭部正面から撮影したエックス線写真。丸いつぼの中に遺骨らしき陰影が見える?(奈良国立博物館提供) 「西の比叡山」と称される姫路市の書写山円教寺の開祖・性空(九一〇-一〇〇七)をかたどった木像「性空上人坐像」(十三世紀末)の頭部に、人骨が入ったガラス製のつぼが納められていることが分かり、調査にあたった奈良国立博物館が十五日発表した。像のエックス線撮影で判明したもので、科学的調査で納骨が確認された像としては国内最古級。鮮明に写った陰影は性空の遺骨とみられ、千年の時を超えた発見に関係者からは驚きと喜びの声が広がっている。 博物館によると、遺骨を像に納める事例は、鎌倉時代には少なくないが、平安時代では滋賀県大津市にある園城寺の智証大師坐像(国宝)が知られる程度。今回のつぼはそれに次ぐ古さという。 像はヒノキの寄せ木造りで高さ八九・五センチ。リンゴに似た形のつぼは直径約十一センチ、高さ約

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