タグ

16cに関するshig-iのブックマーク (16)

  • 村上海賊の能島村上家に宛てた大友宗麟の書状を発見、毛利家・小早川家からの寝返りに謝辞 三原市の所蔵史料 | 中国新聞デジタル

    戦国時代に九州北部を治めた大名の大友宗麟の書状が、広島県三原市が所蔵する史料から発見された。市教委によると、村上海賊三家の能島村上家に宛てた、毛利家と小早川家からの寝返りに感謝を記した内容で、山口県文書館が所蔵する写しの原という。

    村上海賊の能島村上家に宛てた大友宗麟の書状を発見、毛利家・小早川家からの寝返りに謝辞 三原市の所蔵史料 | 中国新聞デジタル
    shig-i
    shig-i 2023/12/03
    寝返りへの感謝
  • 織田信長に仕えた時期の豊臣秀吉の書状確認 SNS投稿きっかけに解読 | NHK

    戦国時代、豊臣秀吉が織田信長に仕えていた時期に、合戦に早く駆けつけた自分の家臣に対し、褒美を受け取るよう伝えた書状が静岡県内の一般の住宅に保管されていたことが、東京大学史料編纂所の研究者によって確認されました。信長の家臣だった時期の秀吉の動向が分かる書状が発見されるのは珍しく、持ち主が書状の写真をSNSに投稿したことをきっかけに、解読が進んだということです。 この書状は静岡県在住の宮田岳さんが、豊臣秀吉に仕えたと伝わる先祖のものとして実家で保管していたもので、書状の写真をことし6月、SNSに投稿して広く解読を求めました。 これが、戦国時代の史料の収集と分析が専門で、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の目にとまり、宮田さんと連絡をとって実物の解読が行われました。 その結果、署名にあたる花押が秀吉のものであることや、紙の質や筆跡の特徴などから、秀吉が側近に書かせた書状だと確認されたということで

    織田信長に仕えた時期の豊臣秀吉の書状確認 SNS投稿きっかけに解読 | NHK
  • “新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見 | NHKニュース

    室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。 見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。 東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。 義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。 史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。 中世に

    “新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見 | NHKニュース
  • 「桶狭間の戦い」について

    BS歴史NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤正行『信長の戦争』講談社

  • 信長と対立した僧侶が秀吉に宛てた書状見つかる | NHKニュース

    織田信長と激しく対立した浄土真宗の僧侶、顕如が、信長の死後、羽柴秀吉に接近しようと書いた書状が2通見つかりました。秀吉宛ての書状はほとんど残っていないということで、調査にあたった専門家は「この段階で、秀吉を権力のある人物と認識していたことがはっきりと分かる貴重な史料だ」と指摘しています。 顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。 調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。 もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられる

    信長と対立した僧侶が秀吉に宛てた書状見つかる | NHKニュース
  • DGXMZO3285436011072018000000?channel=DF220320183617

    記事保存 日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。 フェイクニュースにどう対処するか――。ネットの検索エンジンやSNSの発展を背景として飛び交う偽情報が、時には国際政治をも揺さぶっている。しかし、だまされてしまう受け手側の姿勢にも問題があるに違いない。現在でも往々にして見かける「陰謀論」は、いわば日流フェイクニュース。虚実取り混ぜてさもありなんと思わせる内容が特徴だ。ベストセラー「応仁の乱」の著者である呉座勇一・国際日文化研究センター助教は新著「陰謀の日中世史」(角川新書)の中で「能寺の変」にまつわる数々の黒幕論と、だまされてしまう人々の心理状態を解き明かした。現在の企業社会に生きる我々にもヒントを与えてくれそうだ。 ■能寺の変「黒幕論」は1990年代から ――1582年(天正10年)に起きた「能寺の変」は日史上最

    DGXMZO3285436011072018000000?channel=DF220320183617
    shig-i
    shig-i 2018/07/17
  • 出雲国風土記、棟札に最古の引用か 出雲・波迦神社で見つかる

    奈良時代に編纂(へんさん)された「出雲国風土記」の記述を引用したとみられる戦国時代の神社棟札が、島根県出雲市斐川町の波迦(はか)神社で見つかり、市文化財課が24日発表した。出雲国風土記を棟札に引用した例としては最も古いとみられ、「棟札の製作者が風土記の写を見たか持っていた可能性もある」と評価している。 見つかったのは、天文20(1551)年に社殿を造営した際、掲げられたとみられる棟札(長さ56センチ、幅12センチ)。「この社の峯に天降り坐して」と墨書されている点が、風土記の「其の山の峰に天降り坐しき」という記述と酷似しており、同課は「風土記を踏まえて書かれた可能性が高い」とみている。 同課が今年3月、波迦神社を調査した際、見つかった棟札25点の中にあった。このうち、慶長9(1604)年の棟札1点にも、同じような引用がみられた。 出雲国風土記をめぐっては、733年に成立して以後、最古とされ

    出雲国風土記、棟札に最古の引用か 出雲・波迦神社で見つかる
  • 企画展「戦国の府中ー小田原北条氏の時代」|公益財団法人府中文化振興財団

    shig-i
    shig-i 2017/06/25
    せめて展示目録ほしい
  • 神戸新聞NEXT|社会|ザビエル画、展示日数に“壁” 実は神戸市立博物館所蔵

    shig-i
    shig-i 2015/02/27
    “光による退色、劣化を防ぐため、公開は年2回、延べ60日以内と定められている。”
  • 「桶狭間の戦い」について

    BS歴史NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤正行『信長の戦争』講談社

    shig-i
    shig-i 2014/06/22
    歴博 小島道裕氏
  • お知らせ : 京都新聞

    File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから

  • 天正遣欧使節・伊東マンショの肖像、伊で発見 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    伊東マンショとみられる肖像画(個人蔵、画像はトリブルツィオ財団提供)。裏面に「D. Mansio Nipote del Re di Figenga Amb(ascitor)e del Re Fra(nces)co Bvgnocingva a sva San(tit)a」と記される ※かっこ内は当時の省略表記を補った文字 伊トリブルツィオ財団の文書保存・管理担当職員、パオラ・ディリコさん(41)が調査し、18日発行される同財団の学術誌に論文を発表する。1585年、ベネチア訪問時の姿を、当時の大画家ティントレットの息子であるドメニコ・ティントレット(1560~1635年)が描いたと位置づけている。 この油彩画は縦54センチ、横43センチ。伊北部在住の個人の所蔵といい、そのコレクションの整理に携わったディリコさんが2009年に確認。スペイン風の衣装を着た東洋風の青年が描かれ、裏側に「Mansio

    天正遣欧使節・伊東マンショの肖像、伊で発見 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
    shig-i
    shig-i 2014/03/17
  • 長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】16世紀の礼拝場遺構か (2月9日)

    16世紀の礼拝場遺構か 大十字架が立っていた跡とみられる円形状の石組み遺構=平戸市猪渡谷町 「キリシタンの墓」と伝えられる平戸市猪渡谷(いとや)町の「クロスバル」を専門家が調査し、巨大な十字架が立っていた跡と考えられる石組み遺構を確認した。禁教以前のキリシタンが礼拝した16世紀の「クルス(十字架)場」だった可能性が出てきた。専門家は「初期キリシタン時代の貴重な遺構かもしれない」と注目している。 ■半円状の丘 クロスバルは中山間地域の谷間に位置するなだらかな半円状の丘陵で、樹木が生い茂っている。格的な調査が行われたことはなく、実態は謎だった。 石造物研究者で長崎歴史文化博物館研究グループリーダーの大石一久さん、元平戸市教委学術専門幹の萩原博文さん、同市生月町博物館島の館学芸員の中園成生(しげお)さんら研究者が1月、合同調査を行った。 調査では、東西約20メートル、南北約10メート

    長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】16世紀の礼拝場遺構か (2月9日)
  • 「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    安土桃山時代末の1597年、日人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。 審問記録には、日名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日)」と明記された、「日生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレス

  • 聚楽第:日本史研究会、府に石垣の保存要望 /京都- 毎日jp(毎日新聞)

  • 造山古墳(岡山)の周辺部発掘調査 葺石が多数出土 - 山陽新聞ニュース

    全国第4位の巨大前方後円墳・造山古墳(国史跡、岡山市新庄下)の周辺部発掘調査で10日までに、墳丘から撤去されたとみられる多数の葺石(ふきいし)が出土した。同古墳は1582年、織田勢の備中高松城水攻めの際、毛利方の援軍が出城を築いたと伝わっており、調査を進める岡山大の新納(にいろ)泉教授(考古学)らのチームは、城の構築時に捨てた可能性があるとみている。 葺石は墳丘斜面に敷き詰められた石で、後円部北側の調査区で見つかった。現在の地表から約1メートル下、中世に堆積(たいせき)したとみられる地層の上面で、東西3・4メートル、南北3・7メートルの範囲に集中。大きさは約30センチ角から、こぶし大までさまざま。葺石とともに埴輪(はにわ)片、室町時代の土器片約40点が出土している。 岡山県史などによると、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利方の武将・清水宗治の守る備中高松城を攻略。短期間で堤防を築き城を水

    shig-i
    shig-i 2009/03/12
    「古墳は1582年、織田勢の備中高松城水攻めの際、毛利方の援軍が出城を築いたと伝わっており、調査を進める岡山大の新納(にいろ)泉教授(考古学)らのチームは、城の構築時に捨てた可能性があるとみている」
  • 1