変わった生き物や珍妙な風習など、気がついたら絶えてなくなってしまっていそうなものたちを愛す。アルコールより糖分が好き。 前の記事:iPhone6をiPhone12に偽装する > 個人サイト 海底クラブ 興亜建国パンは米を節約するために発明された 資料によると、興亜建国パンがデビューしたのは1940年のことである。前述のように栄養バランスに優れた食品とすることを目指したわけだが、興亜建国パンが作られた一番の目的は主食である米の不足を補うことだったそうだ。 興亜建国パンについて初めて知ったときは、面食らった。 何より名前がすごい。 食料の不足を代用品でごまかそうとする発想は別に珍しいものではない。ただ、その代用品に「興亜建国(アジアを興し、国を建てる)」という勇ましい名前をつける面の皮の厚さが素晴らしいではないか。 興亜建国パンの詳しいレシピは、食糧問題についての研究機関である「糧友会」が19
望月 千代女(もちづき ちよじょ)、望月 千代女房、あるいは望月 千代は、信濃国望月城主望月盛時の妻、信濃国の滋野氏の末裔で、戦国時代における信濃巫の巫女頭(歩き巫女)とされる人物である[1]。作品によってはくノ一とされ、千代女を“ちよめ”と読ませるものもある。 概要[編集] 望月千代の名前が知られるようになったのは、中山太郎『日本巫女史』(大岡山書店、1930年)である。同書には「千代女房」なる巫女が1569年(永禄12年)に武田信玄から与えられた朱印状が掲載されており、千代女はこの免許状で甲斐と信濃の両国の神子頭に任じられたという[2]。千代女は川中島の戦いで戦死した信玄の甥・望月盛時(印月斎)の後室で、旧縁を頼って信濃国小県郡祢津村に移住したといい、この結果、祢津村は江戸期を通じて巫女村として栄えることになったとされる[3]。 同様の話は、福田晃『神道集説話の成立』(三弥井書店、19
大和西大寺の喫茶店でモーニングの満漢全席 銃撃事件の現場には せんとくん、グーパンチ 喫茶アーガイルのちびドッグ。成人たちよ健やかに。 奈良公園 天理ラーメンを屋台で食べる 満洲国皇帝愛新覚羅溥儀をもてなしたグラスでサイドカー 奈良の夜はLAMP BARで更けていく。檜の香りのネグローニ 朝、珈琲果汁 SUGIでミックスジュース 茶粥に山盛りの漬物 樫舎でお茶を飲む 三連休を得たので、奈良に出かけた。三連休一日目は大阪にいた。新幹線では、東京からは奈良に直通で行けないので、大阪に一泊することにしたのだ。 在華坊さんがツイートしていた大安が気になっていたので、行ってみることにした 破格の立ち飲み、西天満『大安』 - 日毎に敵と懶惰に戦う 外から見るとかなり混んでいるように見えたが、戸を開けてみるとそうでもなく、普通に座ることができた。立ち飲みなのかと思っていたが、実際には小さな椅子が置いてあ
ハックルさんこと岩崎夏海さんについて自分が知ってることをちょこっと語ってみようかなと。 岩崎夏海さんとは 岩崎書店創業者のお孫さんです。建築家の父を持ち、東京藝術大学の建築科に進学。 ここまでは親の七光りみたいな人生に見えますがとんでもない。ハックルさんはめちゃくちゃ独立志向の高い人間でした。 大学卒業した後は家業から離れて放送作家をやったりAKBのアシスタントプロデューサーをつとめたりゲームソフトの開発を手掛けるものの退社。放送作家以外はどの仕事も2年ちょっとくらいしか続いてないので会社勤めが苦手なのかもしれません。無職になっていた期間はひたすらFF11をプレイしていたらしく、FF11を最速でクリアしたことで有名な伝説のプレイヤーである暇空茜さんとぜひ対談してほしいですね。 はてなダイアリーで記事を書き始めますがあまりの自意識モンスターぶりにシロクマ先生が「はく製にして展示しよう」と物騒
もしあなた方がこの世から出たものであったら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だからこの世はあなた方を憎むのである。 - John 15:19 カタリ派とは? 小パウロ派とボゴミリ派 カタリ派の信仰 カタリ派の実践 アルビジョア十字軍 カタリ派とテンプル騎士団の共通点 カタリ派の消滅 関連書籍 まず翻訳をご覧頂く前に、カタリ派とは何か?という概略を知ってもらいたいと思いました。まずは、簡潔にして優れた、世界宗教大辞典から「カタリ派」の項を引用し ます。 カタリは|カタリ派 中世ヨーロッパで一時有力だったキリスト教異端の一派。カタリ(Cathari)とは清浄派の意。極度に禁欲的な戒律を奉じたためにこの名が生じた。二神論を 基本教義とする。アルビジョア派、パタリニ派、ブルガリ派、プブリ
大河ドラマ「どうする家康」 @nhk_ieyasu 今川家の人質として生涯を終えると思っていた若き日の家康は、三河武士の熱意に押され、織田信長、武田信玄ら化け物が割拠する乱世に飛び込む―。待っていたのは死ぬか生きるかの大ピンチ!計算違いの連続!ガマンの限界!どうする家康! #古沢良太 が描く波乱万丈のエンターテインメント!主演 #松本潤 利用規約nhk.jp/rules nhk.or.jp/ieyasu/ K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN 山梨在住の歴史学者。健康科学大学特任教授。ポニーキャニオン所属。著作は、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱』(戎光祥出版)、『武田氏滅亡』(角川選書)、『戦国の忍び』(角川新書)など多数。
↓前回 mugrumat.hatenablog.com 今週の13話は間違いなく神回でしたね。 それでモチベーションが生まれたので、13話とは関係ないですが、以前から書こうと思っていた奴隷の投げ荷についての解説を書きたいと思います。 ja.wikipedia.org ...と言っても全部これに載っている程度の内容ですが... 補足しながら説明します。 住吉九 『ハイパーインフレーション』(集英社)7話 より まず前提として、奴隷船では通常10%ほどの奴隷が着くまでに死んでしまうそうです。 アフリカからヨーロッパまで3ヶ月以上かけて拘束された状態で航海するのですから、想像に難くないと思います。 加えてこのゾング号では過剰に奴隷を詰めた・航路を間違えたという二つの要因から深刻な水不足に陥りました。 船員も約4割が死んでいたそうなので、このままでは全滅も有り得たのではないでしょうか。 そこで船員
山梨県都留市朝日馬場の石船(いしふね)神社で毎年正月15日に初祭りが執り行われますが、その際に同神社に安置されている大塔宮(おおとおのみや) 護良(もりなが)親王の「御首級(ごしゅきゅう)」が公開されます。 護良親王は南北朝時代、足利尊氏と対立した後醍醐天皇の皇子で、同神社に残る伝承では、建武2年(1335)、足利氏によって鎌倉の土牢で護良親王が殺害されたおり、雛鶴(ひなづる)姫という寵姫が護良親王の御首級を携え、この地まで逃げ延びて息絶えた事から、その御首級が同神社に祀られる事になったのだと云います。 護良親王の御首級は江戸時代に復顔術が施され、「石船神社の復顔首級」として都留市指定有形文化財(第18号有形民俗文化財)として金庫に保管された状態で、神殿に安置されています。同神社では毎年正月15日の初祭りの際に、その年の祭礼当番が御首級の無事を確認する仕来たりとなっており、この日も神事の後
バーブル・ナーマ、読み終えました。 通勤中に少しずつ目を通すだけだったので、時間がかかりました。 前提知識なしに目を通しただけでは、多分、楽しめるものではないはずです。 それでも、個人的には、感銘を受けたところもあります。 読み終えて再認識。 やっぱりバーブルはすごい奴だった。 彼の人生は、無理ゲーから始まります。 11歳で君主になり、しかもいきなり東西からの侵攻を受けるところから始まるのです。 部下も主人をナメきっていて、勝手にサマルカンドの主であるバイスングルの名前でフトゥバをよませたりします。 このままでは親戚に殺されるというのもあって、ヒィヒィ言いながらもなんとかサマルカンドを攻め落とし、一躍大君主になりますが……ここでまた、部下が裏切ります。 特にタンバルは、彼がベグにしてやったのに、いきなりフェルガナ地方に戻って自立してしまうのです。 で、右往左往している間に北方から外敵のウズ
1204年4月23日はトレビゾンド皇帝アレクシオス1世がトレビゾンドに入城したとされる日である(Karpov 2012 pp.75-76. Карпов 2001 Образование p.27)。以前もブログで紹介したが、根拠となる史料はアレクシオス1世の印章史料(印璽)において聖ゲオルギオスと復活のキリストが描かれており、これとパンアレトスの4月建国の記録とを照合して聖ゲオルギオスの聖名日である4月23日に征服、当時の復活祭の4月25日に建国がなされたとする推論がなされていることに由来する。復活祭の日や暦こそ違えど、4月23日が金曜日で25日が日曜日という面では今年とリンクしている。今回の更新で本ブログも開設してから4年になるので、いずれ時間が許せば他の研究をまとめた上でのでの「トレビゾンド帝国の建国」についてのブログ記事を書きたいが、今回は昨年更新した記事の続きとしての簡単な分析を
新連載!モンゴル国立大学研究員・谷川春菜さんによる『天幕のジャードゥーガル』をもっと楽しく読める解説コラムです。初回の今回は一挙2話更新!第15幕とあわせて読んでくださいね。 このコラムでは、マンガ『天幕のジャードゥーガル』の舞台となった地の歴史や文化を連載形式で解説します。今回は第15幕のあらすじをふまえ、13世紀前半のモンゴル帝国に存在したさまざまなお仕事を紹介します。 第15幕のあらすじ 1230年夏。モンゴル帝国では、金国への遠征の準備が進められていました。二代皇帝オゴタイ、その弟トルイ、叔父テムゲが軍を率い、兄チャガタイは留守を預かることになっています。 チャガタイ、オゴタイ、トルイの間に不和を起こし、「モンゴル帝国に混乱をもたらす」ことを目指す、主人公ファーティマ。手始めにチャガタイと接触すべく機を窺っていたところ、皇帝の第四妃モゲと出会い、成り行きでオゴタイのもとへ。オゴタイ
ホラズム・シャー朝の支配領域 この項目では、1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服(モンゴルていこくによるホラズム・シャーちょうのせいふく)について記述する。 この遠征によって中央アジアには多大な被害がもたらされたとされる[1]が、その規模については諸説ある[2]。 戦争の背景[編集] 両国の交流[編集] 13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン(チンギス・カン)率いるモンゴル国、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大しつつあった[3]。更に、1211年から1215年にかけてモンゴル帝国は第一次対金戦争によって華北の大部分を制圧し[4]、ホラズムは1212年/13年までにマー・ワラー・アンナフル地方を制圧してアフガニスタンのゴール朝を併合し[5]、1217年/18年にはバグダ
ぱんスキュさんTOP 旅行記299冊 クチコミ1430件 Q&A回答12件 842,253アクセス フォロワー109人 2016年12月23日~2017年1月8日 年越しイラン&UAE・カタール旅行 前々から行きたかったイラン。ここ数年は女性1人でのビザ許可も緩和され、それどころかアライバルで簡単に取れるようになったという…行くなら今でしょ! ついでにトランジットでUAEとカタールにも寄っちゃおう!という、イスラーム満喫旅行の2週間。 ★ 2016年12月26日 マシャハドから片道約2時間のニーシャープール(ネイシャブール)という町に日帰り旅行。ここにはマイ三大中東ヒーローのオマル・ハイヤーム様ゆかりの地、彼の墓があるのだ。 (ちなみに残りお二人の中東ヒーロー、ダマスカスのサラディーン廟&イスタンブールのケマル・パシャゆかりのドルマバフチェ宮殿は拝観済) 残るここは今回のイラン旅行の最優先
あわじまさき(休止中) @hijmsawaji 「数千年の歴史を持つ帝国で代々権力を握ってきた高貴なる血筋を引く最高位の貴族の当主で、イケメン高身長高学歴。一国の宰相にも任じられ歴史にその名を残す男に生まれ変わらせてやろう」って言われてチートじゃんって喜んでたら近衛文麿になってしまった転生者のなろう小説。 2022-12-12 18:01:39 リンク Wikipedia 近衛文麿 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年〈明治24年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の政治家。内閣総理大臣(第34・38・39代)。位階、勲等、爵位は従二位勲一等公爵。 貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会
ナスィールッディーン・トゥースィー[1](ペルシア語: محمد بن محمد بن حسن طوسی Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī アラビア語: ナスィールッディーン・アッ=トゥースィー Naṣīr al-Dīn Abū Ja‘far Muḥammad b. Muḥammad b. Ḥasan al-Ṭūsī、 نصير الدين ابو جعفر محمد بن محمد بن حسن الطوسي 1201年2月18日 –1274年6月26日[2])は、シーア派を代表するペルシア人[2][3][4][5] の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。 トゥースィーはイランのホラーサーン地方のトゥース生まれの人物を
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