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掃除・片付け
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前回のエントリの続き 宮台は『これが答えだ!』で次のように述べている。 結論から言えば、意味がなくても−−成功物語や貢献物語の主人公にならなくても−−、強度−−世界を濃密に体感すること−−さえあれば人間は生きていけます。というよりも、人間はそのように生きることが伝統的にはノーマルです。ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがるのだと喝破しました。しかしニーチェの本を読み、あるいは「意味から強度へ」といった言葉を聞いて、無意味な生を癒される読者は、十分に意味的な存在であり、反ニーチェ的です。ここに「意味から強度へ」と、ただ意味的に述べるだけでは清まない問題の困難さがあるわけです。 −−宮台真司,1998『これが答えだ!』飛鳥新社 : 160 ここで宮台が言っていることは2つ*1。 原初的な社会では強度によって生きるのがノーマル 原初的な社会で
現代のエスプリ別冊『ひきこもる若者たち (うつの時代シリーズ)』の対談で少しだけイギリスについて触れられている。昨日、このことを友人と話していたので少しだけメモ。 斎藤環 ただ、欧米と一緒くたにできないのは、たとえばイギリスはまだ日本に近いとこ…
id:cafe_noir:20041229でコメントした後、放ったらかしにしていた「スティグマ」についてエントリ。 「スティグマ」という用語を「ひきこもり」に持ち込むことは生産的ではないが、ひきこもり後には生産的であるかもしれない。「スティグマ」については大村英昭の見解を引用しつつ説明。 「スティグマ」という言葉は学術用語ではなく日常的に使われる言葉だ。もともとは奴隷や犯罪人になどに押されていた「烙印」のことであったが、カトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人にあらわれるということから「聖痕」の意味にも使われようになった。 「ステイグマ」は日常用語としてすでに道徳的に着色されている。すなわち、カソリック教会では「聖痕」の意であって、本当の聖人を識別できる一定のマークである。だがこれはカソリック教義によって意味転換した結果であって、より一般的には、奴隷や犯罪者に
今回は宮台真司の「意味から強度へ」の言説について。id:SUIESEIさんのエントリを読みながら、やはりこのことについて書いておかなければと思いエントリ。 現在の宮台真司は「アジア主義」を標榜しているが、90年代後半の宮台真司は「意味から強度へ」というスローガンを掲げていた。 僕は「意味と強度」というフランス現代哲学のニーチェに由来する対概念をよく使うんですが、「楽しい」というのは「強度がある」ということです。「無意味だ」というのは、「意味がない」ということです。ちなみに「強度」とはアンタンシテ(インテンシティ)の訳で、濃密さとか密度とも訳せます。言い換えると、「意味がない。でも、強度はある」と、「強度はある。でも、意味がない」という対立です。その立場の違いが生と死を分けるらしい。あるいは、現に死ななくても、つらいか、つらくないかを分けるらしい。 −−宮台真司・藤井誠二,1999『美しい少
id:about-h:20050411で書いたことの追記。 この見解文に登場する2人が苦しんだと言っていることは事実であろうし、彼らが貴戸理恵に自分が話したことを削除してくれというのは、全く問題がない。ただ、それを東京シューレの見解文でやってしまったことに問題がある*1。 さて、2ちゃんねるにこんな書き込みがあったらしい(東京シューレ出身者が書き込んだのではないかと推測できる)。これはおそらく本音の部分ではないかと思われる。 87 :名無しさん@社会人:2005/04/10(日) 18:21:59 >>81 ううん、ぜんぜんそんなことはないね。 貴戸理恵の言っていることなんて、タテマエに対するウラ。ただ、子どもは大人や親の前では遠慮する。大人たちは、奥地先生や渡辺先生らの前ではガマンする。それだけ。 貴戸は特権階級なので、長老が死ぬ前に自由に発言できる身分にあるだけ。 そのほか、たいていの
貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解(東京シューレ) 参照 id:hikilink:20050410 id:deneb:20050410#p1 id:snusmumrik:20050410 自分はこの出来事の当事者ではない。だから、たとえ知っていても言えることはあまり多くない。見解文から読み取れることに絞ってエントリしたい。 貴戸の本が東京シューレへの批判であると見解文は主張するが、いったいどこが批判なのか疑問だ。貴戸の本が「市民運動がやってきたことの否定」であるというのも理解しがたい。(貴戸は)「巧妙に「不登校は病気である」と受け入れるように促している」という所などは、被害妄想としか思えない。(そんなことが一体どこに書いてあるのか教えて欲しい) 「「明るい不登校」と明るくない不登校などと分断している」と貴戸を批判しながら、「不登校経験者にとって」と不登校を一括して論じている。人を
現代のエスプリ別冊『ひきこもる若者たち (うつの時代シリーズ)』の対談で少しだけイギリスについて触れられている。昨日、このことを友人と話していたので少しだけメモ。 斎藤環 ただ、欧米と一緒くたにできないのは、たとえばイギリスはまだ日本に近いところもあって、BBCがひきこもり番組やったら、たくさんのお母さんが、うちの子も全く同じですという反響をもらったと聞きましたけれども、そういうひきこもり的な生活形態というのは、貧困層はさすがに無理としても上流階級の富裕な家庭には結構見られるんじゃないでしょうか。 −−座談会「ひきこもりの現在」,『ひきこもる若者たち (うつの時代シリーズ)』: 34 上流階級ではないが、イギリスの中流階級で男女一例ずつのひきこもりを知っている。日本人が英国でひきこもるというのではなく、英国人(白人)が英国でひきこもるという例として。 そのうち一例は「イジメ」が原因。 イジ
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