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aien.hatenablog.com
唐九郎の説では、酒は飲みにくいぐい呑みで飲む方がうまいという。お茶もそうらしい。そこで実験してみた。味覚は主観的なものだから、えてしてこういう既知情報に左右されやすい。だからあまり確かなことではない。だが、味覚とは主観が主観として味わうものだからこそ、こういうあやふやな主観の印象が重要だとも言える。土台この種の官能試験は機械的な計測が届きにくい分野だ。官能のものは官能へ、である。 用意したのは ①飲み口が薄く、傾けるとすっとお茶が口に流れ込む、所謂飲み心地のよい茶碗 ②飲み口が厚ぼったい上、凹凸(よく言うと山道)があるので、ヘタをするとこぼす可能性さえある茶碗 の二種類だ。この二つで抹茶を立てる。お湯の温度で差が出るかも知れないので、順番を入替えて二度試験してみた。 驚いたことにやはり飲みにくい茶碗のお茶の方がうまいのだ。飲むときの緊張感が美味さを生むのか、飲む際に多少すする必要があるので
ひさしぶりに死の不安を覚えた。風呂に入っているときだ。温かい湯につかりつかの間の安息を感じていたその時、こういうことを感じること、そのことが永遠になくなるのが死だと思った。もし一年のいのちを宣告されたら、どんな思いでこの湯につかるのだろう。何にすがっても死を免れることはできないのだ。そのとき不意に死が身近になった。 死は決して死そのものではない。もし死そのものなら私たちはなにも感じることも怖れることもできないから。死はいつも私たちにとっては予期なのだ。生きることがもうひとつの述語であるように、死とは究極の述語なのだ。だから生という述語のただ中にいるときに死は身近になる。 死ぬことはこわい。死への苦しみもこわい。それを思うと自死するひとの気持も手に取るように分る。だが、それで楡の木は見つかるのだろうか?(cf. http://www.geocities.jp/todok_tosen/todo
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