サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
GPT-4o
foucaultlian.hatenadiary.org
「ネグリは〈生権力〉と〈生政治〉という近年の鍵概念をフーコーに負っている。しかしその事実を超えたところで、これら二概念の意味がネグリとフーコーで大きく異なっていることはそれほど知られていない」*1と指摘する箱田徹は、両者の生権力論の違いについて2つほど言及している。 まず、一つ目について、箱田は次のように述べている。 フーコーによれば〈生政治〉とは、ある領域(ウェストファリア体制以後の主権国家とほぼ同義)の内部で生活する人々を〈住民〉(=人口)として集合的に把握した上で、そこで生じる健康・衛星・出生率・寿命・人種といった生物学的・病理学的現象を問題化し、それに応じる国家の統治理性のあり方を指す。・・・・・・したがってこの意味での生政治は、ネグリが論じる、ポスト・フォーディズム体制下での労働時間と非労働時間の区別の消失、傾向としての非物質的労働の台頭といった事柄は含まれない。フーコーの生政治
ミシェル・フーコー講義集成〈6〉社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76) 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,石田英敬,小野正嗣出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/08/01メディア: 単行本 クリック: 36回この商品を含むブログ (30件) を見る 人種差別主義、それは文字通り、革命の言説ではありますが、逆向きの革命的言説なのです。あるいは次のように言えるかもしれません。複数の人種(=民族)の言説、闘争状態にある複数の人種(=民族)の言説が、ローマ的な主権の歴史的政治的言説に対抗して用いられた武器であったとすれば、単数の人種の(単数形の人種)言説は、この武器の向きを変える手管であって、その武器の刃を国家の保存された主権のために用いる方法であったのだ、と。法から規範へ、法的なるものから生物学的なるものへの移転と引き替え
「語りえぬもの」を抑圧するという議論はしばしばなされてきた。たとえば、「語りえぬもの」としてのサバルタンを西欧言語が代弁・表象するという図式の暴力性を暴露したサイードの「オリエンタリズム」はその典型だ。しかし、ここでは「語りえぬもの」が我々を抑圧するということについて考えたい。 たとえば、「人間みがない」「心が冷たい」といった表現はその典型だろう。ここでは「人間」「心」といった言葉の意味内容が所与のものとされているわけだが、おそらく発言者に「『人間』って何?」「『心』って何?」と問うたとしても、「なんとなく分かるだろう!」程度の解答しか返ってこないはずだ(無論、僕もそれ以外の解答を用意できる準備はない)。しかしながら、「なんとなく分かるだろう」程度のもので自らの「非-人間」性を糾弾されるとすれば、そんな理不尽なことはない。というよりも、我々は本当に「何となく分かっ」っているのだろうか? こ
今更ながら『政治的なるものの再興』と『民主主義の逆説』を読んで、最初は面白いなぁと思っていたんだけれども、やっぱりいまいちかなぁ・・・ 確かに、カール・シュミットの自由主義批判を引用しつつ、自由民主主義体制に刻印されている敵対性とそれに伴う排除という機制に政治的なものの本質を見て取る点はもっともだと思うし、そういった政治的なものを主体の合理性やコミュニケーション的理性といった普遍的概念を措定することで消去しようするロールズやハーバーマスのリベラリズム的思考は早晩行き詰るというムフの指摘は鋭いと思う。また、個々人の善き生の基盤たる共通善の発見を目論む共同体論者の企ても古代ギリシャ的なものへの懐古主義以上のものにはなり得ないというのもそのとおりだ。 しかしながら、彼女の提唱するラディカル・デモクラシー論は、政治理論というにはあまりに漠然としすぎているような気がするんだよなぁ。要するに、政治的な
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Foucaultlianの「恥的思考」(j・ボム)』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く