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円安とは
imakoko-blog.hatenablog.com
それを良いと思うのか。それとも悪いと思うのか。 人生を歩んでいるとこれでもかってうまくいかないタイミングってのが何度か訪れる。 最近で言えば、年末にコロナになり最近インフルエンザになり、その間にも胃腸炎になり体重が7キロも減った。 それに加えて自身にとって予測の範囲を超えた問題ばかりが起こりもう正直何もかも嫌だとさえ思った。 今もそれが改善されている訳ではない。現在も継続して生きるのがしんどいって日々思っている。 凄くマイナスな事ばかりを言っているが、そんな時も人生にあるだろう。弱気な事を言うな投げやりな事を言うなっていう人もいる。皆、そんなに強くない。 辛い時だって人生投げ出したい時だって訪れる。それをひた隠しにするのかオープンにするのかの違いくらいだろう。 以前までずっとひた隠しながら生きてきた。いくら苦しくても辛くても絶対に誰にも相談しないし自身で解決するだけの能力があるってひたむき
あけましておめでとうございます。 更新が滞っていました。なぜなら昨年12月にコロナが家族内で猛威を振るい復帰してもブログを更新する気力がありませんでした。 本日からスローながらもブログを書こうと思います。 ところで話は急に変わりますが、本日知った言葉があります。 「片親パン」という言葉。 最近、話題になった5→4個に数量自体は減ったものの内容量は変わらないというミラクルを見せてくれた「薄皮シリーズ」や「複数入っているスティックパン」などを指す言葉らしいですが、どうやら貧乏だからたくさん入っているパンを与えられているという理由も込みで使われているという事を知り唖然としました。 Z世代と呼ばれる世代では、その他に「アフガキ」などの言葉もあるようです。これは、アフリカにすんでいる貧乏な子供を指しているらしいですが、貧乏な人に対して使われている言葉らしいです。 親ガチャなんて言葉も注目を浴びていた
わずかな事でも続ける事で成果となって現れる。 地元で公園がひとつ閉鎖される事がニュースなどで騒がれていました。 長野市で公園が閉鎖するなんて区画整理以外であまり聞いた事がないので、何があったのかと思えば苦情が何年も続いた結果閉鎖する方向に舵を切ったとのこと。 まさに継続は力なり。ですね。 それも苦情を言い続けたのがたった一人という事で、一人でも言い続けることで公園を閉鎖する事ができるという事を証明しました。 付近には、小学校や保育園もあり交通的な問題なども含めて色々不満があったようですが、「子供の声がうるさいから」という理由がニュースなどで出ているので苦情の大半は「騒音」という事でしょう。 少子化で子供の数も減り更にはコロナ渦で公園で遊んでいる子供もまばらなこの状況で苦情を言い続けたというのは、さすがというか凄いというか…。 その人個人の状況などは、正直知りませんし一個人の状況などが反映さ
深すぎるこの言葉。 以前、と言ってもつい数日前に投稿した imakoko-blog.hatenablog.com これに引き続くちょっとどうでも良い話をまた今回も…。 今回のタイトルになっている「心の声まで聴こえそう」という言葉。 とあるCMで使われてる言葉なんです。 なんか最近どうでも良い事に耳が反応してしまって「ちょいちょいちょい」ってなってしまうんですよね。 暇なんでしょうか。 ここで問題です。この言葉が使われているのは、なんのCMでしょうか? … …… ……… はい!正解です。 答えは、「補聴器」でした。 このCM多分前からやっていたんでしょうけど、今日初めてそれに耳が反応してCMに「さすがにされは怖いわ」って言ってしまいました。 心の声まで聴こえる補聴器。もう、ドラえもんとかが出すアイテムでしょう。 いや、もしかすると近い将来そんな商品ができるのかもしれません。 であれば、かなり
今日は本当にくだらないお話。 歳も40を超えてくるとお風呂での抜け毛などが気になるお年頃。 こないだYouTubeを見ていると見透かしされたような広告が流れてきた。 まぁ、よくある薄毛の問題にはこれが効くよって広告なんだけど、その売り方が凄かった。斜め上をいっていた。 「お風呂で2本以上の抜け毛がある人は若ハゲになります。」 これって衝撃じゃないですか? 子供でも抜けるし2本なんて抜けても気がつかないレベル。 そもそも若い人は、抜け毛なんてほとんど気にしていないんじゃないかな。 どこをとっても突き抜けた広告に衝撃を受けました。 もうこれはデータがあるとかないとかそんな事は抜きにして、誰にでも該当しそうな内容を神妙な面持ちで話しをしているちょっと冴えない男子を見て「この人は演技派だな」って思ってしまいました。私の場合、リトル本田的な存在が「んなバカな」って言うからNG連発で外されるレベルの話
意味のある努力と意味のない努力とは。 私は、努力に意味があるないはないと思っている。 努力は努力であり、例え方向性の違う努力であったとしても本人がその方向に可能性があって努力をしたのであれば、いずれ何かの役に立つと信じている。 こんな事を言うとそういう思考をお花畑という人もいるでしょう。 その時点でその目標や目的に達成できていないから未達という面を見れば、無駄という事になるでしょう。というのも理解はできるが、社会だけでなく他の部分、学校生活や部活などといった部分まで波及しているのは正直どうなんだろうと思う。 何が正しい努力なんて先の先までわからない。 現時点で結果が出ない事を意味のない努力と切り捨てるのももっともらしい事だけど、その発言で努力をしなくなってしまう事がかなり深刻な問題だと思う。 俗に言う無駄な努力の方向に新たな可能性があったにも関わらず、切り捨てられてやれなくなってしまい結果
正しく評価するされるって難しい。 ドイツに勝って盛り上がったりコスタリカに負けて盛り下がったりと忙しいワールドカップ。 今率いている森保監督は、サッカーフリークの中では凄まじく評価が低い監督。 評価が低い原因として自身の意見を言わないや理詰めでサッカーをしていないので積み上げがあまりにない、引き出しが少ないというような事が挙げられている。 そんな監督だが、ドイツ戦で勝利した結果、海外からは「頭のよい監督」と評価された。 戦前評価を低く言っていたサッカーフリークの人は、この試合結果により世間から謝罪しろとか謎のバッシングを受けるはめに。 これがまさに勝てば官軍負ければ賊軍なのかと思うが、次節のコスタリカ戦で戦前から懸念されていた積み上げがない、引き出しが少ないという問題があらわになった。 こうなると、一気に風向きは変わりやはり監督がダメだ。そして、サッカーフリークの人はすげぇという流れに…。
自分の声を聞かない事も必要かもしれない。 よく「自分の声に耳を傾けなさい」と言われる事があります。 でも、必ずしも自分の声が「良い事」「正しい事」を言っているとは限りません。 自分の声も判断を誤ることがあります。 どこかで自分の声がこう言っているからそれが正しいという錯覚に陥る事がありますが、自身が「都合良くそうありたい」「それが正しいと思い込みたい」そんな思考を正当化したい時に利用する時もあります。 自分の声が思考からひねり出された言葉なのか。それとも、本当に降ってくるようにひらめいた言葉なのかというのは見極めたいところ。 その精査は簡単じゃないけど、もし、自分の声が間違っているならそっと耳を塞ぐ事も必要なんじゃないかと思う。
「バカ」「頭が悪い」「無能」という言葉は。 これらの言葉は、人を傷つけること以外にも意味をなしていると思います。 基本的に人は上記の3つの言葉を人から言われたくもないし思われたくもない。 それを逆手にとってプロパガンダに使われているように思うのです。 とある有名な人はよく「無能」なんて言葉を使いますが、影響力を持つ人がこの言葉を使うと「そう思われたくない」と思う人がそれをしなくなったり逆にしたりします。 そして、質が悪いのがその無能と認定された存在を影響された人間が攻撃しだすのです。 これすなわちその人の思想が浸透して動いているとみて良いのではないかと思います。 疑うばかりでは疲れますが、なるべくは「汚い言葉」の裏で動いている真意はどんなものか考えながら生きた方が健全かもしれないと思う今日この頃なのでした。
天寿を全うするとは。 寿命を全うするという言葉を使う人もいるけど、天寿を全うするという言葉が正確な言葉のようです。どちらも意味合い的に伝わるので良いですけど。 どれだけの人が天寿を全うしたいと思っているかわかりませんが、授かった命を全うしたいと思う人はいると思います。 しかしながら、この天寿を全うするというのは調べてみるとなかなかのハードル。 長生きして死ぬ。また、病気や外傷によらず自然死する。 という意味で記載があります。 長生きとはいくつを指すのか。老衰と死因を書かれても病気を持っていたらそれは天寿を全うしているのか。外傷に関しては、それが死んでしまった直接的な要因である場合だと思うので事件事故というのは想像がつきますが他の2点は現代社会ではなかなか達成が難しい…。 自ら命を絶つ選択を迫られ命を絶つ人が増えている日本。 生きとし生きるものは、例外なく天寿を全うすることが許されいるはずな
混沌としている世の中。 ウイルス。 戦争。 災害。 事件。 これらは昔からある事だけど、それでも最近は異常と思えるくらいに事が起きている。 異常と感じる自分が異常なのかもしれない。 世界の基準からみればこれが標準いわゆる普通という可能性もある。 「ありえないなんてありえない」という言葉が今の時代にはよく似合う。 常にありえる可能性を考えるのは正直疲れる。 しかし、これからの時代は常にありえるという想定で生きていかなければならないと思う。
前園がCMで言った言葉。 ニュースに流れているのは、30歳が同僚をいじめの末に命を奪ったという内容。 これを見て何を思う。 30歳って生物学的にはおそらく子供の分類には入らんでしょう。 それが、いじめの末に人一人の命を奪った。 前園が発信している「いじめ。かっこ悪い」って子供向けてのメッセージだと個人的には思っている。 大人向けなら「いじめ?暇なのか?人の気持ちもまだ理解できないのか?」とかいう内容に私ならするだろう。 大人になっても未だにいじめをするような人間は、精神的な問題を間違いなく抱えている。 「ストレス」「自身が生きてきた環境」などという他人からしたらどうでもよい理由を元にいじめをするのは問題以外の何物でもない。 そして、何よりも暇人なのだ。 暇だからいじめをする。いじめられる側はたまったものではない。 そのいじめのニュースの中で加害者についてインタビューに答えていた人間が被害者
スラムダンクの声優変更が大きな話題となっています。 私もその世代なので声優変更は正直「う~ん」という感覚は否めません。 これに関しては、納得いかない派と納得する派が分かれるのは当然だと思います。 全員が納得するような事なんて余程の事がなければないでしょうしね。 ソクラテスでさえも 「大衆の意見が真理であることはありえない。必ず誤りがある。だからこそ対立する意見が必要であり、両者がぶつかる事で間違いが正される」 今回の一件に関しては、間違いが正されるような事はないと思いますが、肯定と否定があるのは至極当然の話。 しかしながら、そんな中に現れる「なんでこれだけの時間が経って声優が変わるって想像できないの?」というような”私はわかっていた”感のコメントを出す存在。 これらの人はどんな目的があって発信しているのか疑問が尽きません。 色々な人が世の中には存在しますね。
自己肯定感が高い低いが騒がれる昨今。 私は、正直自己肯定感が高いほうではない。 自己肯定感が高くない人って「他人と比較する」傾向にあるけど、これって見方を変えるととんでもない能力なんじゃないかと思う。 だって、他人の「良い部分ばかり見つけられる」能力なんだよ。 自分の良い部分に関しては、視野の狭さから見つけられないのに他人の良い部分に関しては、いきなり視野が広くなって「あの人はこんな優れた部分があってあの人もあって…それに比べて自分は…」って。 この他人の良い部分を見つけるスピードときたら本当にとんでもないと思う。 自己肯定感が高くない人は、人を褒めるプロになれるんじゃなかろうか。 人の長所を見つけるような仕事があれば私のような自己肯定感高くない人にもあっているのかもしれない。 そして、他人の良い部分ばかり見つけるような仕事をしていたら他人の良い部分を見ても「仕事だから」って比較もしなくな
ふと、「青春」が過ぎた私は今どこにいるのかという疑問を抱いた。 青春のイメージって10代の若い男女達が何かにひたむきに向き合ったり恋愛したりってイメージだけど青春が終わったら次は何がくるのだろうか。 調べてみたらちゃんと年齢に合わせて呼び方があるんですね。 10代~30代 青春 30代前半~50代前半 朱夏(しゅか) 50代前半~60代前半 白秋(はくしゅう) 60代前半以降 玄冬(げんとう) と呼ぶようです。 私は、現代「朱夏」に属しているようです。 朱夏とは、人生の真っ盛りで壮年の時代を指しているようで今がまさに人生の充実期という事でしょうか。 どうやら私は常夏の時期を歩んでいるようです。 そう考えると良い時期なんだなとも思えます。 白秋には白秋の良さがあり、玄冬には玄冬の良さがあります。 何か歳をとると若い時よりもできる事が減っていくような気がしてさみしい気持ちになったりしますが、円
言葉には、計測できるような重さはない。 だけど、どんな言葉にも重さが存在する。 その重さが人に勇気を与える事もあれば、人を傷つける事もある。 人と話をしたり、SNSで呟いたりブログに書いたりした言葉にもそれぞれの重さを持っている。 自身が持つ言葉の重さが誰かの救いになればなんて事は思わない。 だけど、誰かを傷つけるような言葉にならないように気をつけていきたい。
「仕方ない」が溢れすぎている。 こんな社会だから仕方ない。 こんな世の中だから仕方ない。 こんな政府だから仕方ない。 こんな親だから仕方ない。 こんな家庭だから仕方ない。 Twitterとかでよく見かける言葉。 どこまで諦めて生きていくのだろうか。 この言葉すらも「現実なんだからそんな事言っても仕方ない」と言われるのだろう。
人生において良い事と悪い事は半分半分だという言葉ある。 でも、これって「その人の捉え方次第」という部分が大きく関係しているんじゃなかろうか。 良い悪いの基準もそれぞれだし、そのことについて「良い」と判断する人もいれば「悪い」と判断する人もいる。 難しいよね。 でも、それだけ人生って個人的なものなんだよ。 自身の命が尽きるその瞬間に 「なんて最悪な人生だったんだ」 と思うか 「良い事も悪い事もたくさんあった人生だったな」 と思うか 「いろいろあったけど最高の人生だった」 と思うかも 自身で決められるって事。 詰まるところそのすべては自身で決められるって事になるのかもしれないね。 あなたはどう生きますか?
悲観的な性格だからさ。 根拠なんてなくてもいい 「きっと大丈夫。なんとかなる。」 って言葉で勇気をもらって前進できる時があるんだよ。
「誰しも何かを持っている」という言葉を聞きます。 確かに何かを持っているかもしれません。しかし、それはあなたが欲しい何かとは限りません。そして、現状「何も持っていない。」という人もいます。 しかし、何も持っていないから希望も何もないという訳ではありません。 何もないからこそ 「何か」を持っているとは 原石は途中でも得られる 最後に 何もないからこそ 「何も持っていない。」これは、すなわち「何かを得られるキャパシティがある。」とも捉えられます。だから、あくまではじめに「現状」何も持っていないという表現を使いました。 「何か」を持っているとは この「何か」は、別に生まれ持った才能や能力だけで「何か」と表現されている訳ではありません。 その道で結果を残す人は、元々センスや才能もあったでしょう。しかし、それが全てを占めている訳ではなく、その上で努力を積み重ねた。原石をしっかり自分で磨いて結果として
「誰かを演じる」気づかないうちにそんな風になっていませんか? こんな人演じてみてと言われている訳じゃないし、私は私だから演じていないと言うと思います。しかし、気づかぬところで演じている可能性があります。 「誰かを演じる」というと、ドラマなどで配役があってその人になりきるというイメージを持っていると思います。 確かに誰かを演じるとは、そういう事です。 しかし、ドラマや映画でなくとも俳優や女優という職柄でなくとも演じている可能性があります。 その原因は、人がつけたあなたへのイメージ。 私とはどんな人か? つけられたイメージを演じる 知らずに蝕まれる自身のメンタル 人のイメージなのか冷静に考える 私とはどんな人か? 自分自身を俯瞰して冷静にどんな人か理解するのって非常に難しい事ですよね。 今はどうかわかりませんが、私がバイトをしている時代には、履歴書の欄に長所や短所を記入する場所がありました。
自動販売機でジュースを買う時、ケーキ屋でケーキを選ぶ時、人は日々の生活の中で大なり小なりの選択を迫られます。 いくつかの選択肢から「どれにしようかな」と選択しながら生きています。 今回は、どんな選択をする事がベストなのかという話ではなく選択肢についての お話しをしたいと思います。 基本的に選択というのは、 「する」「しない」「やる」「やらない」などの2者択一の選択を迫られる事が多いと思います。 その選択であれば悩むと言ってもどちらを選択するかという事に絞られます。 細かくみれば「するならこれこれをしなければいけなくなる」「しないならこんな問題が起こるかも」などのようにそれに付随する悩みは発生するにしても必ず選択できます。 問題なのは、「選択するものがない」という状況になった時です。 選択肢がない状況 断ち切れない負の流れ 「もういいや」か「もうダメ」か 選択肢を増やす思考と生き方 選択肢が
「誰かのために何かをしたい」という気持ちを聞いてあなたは、なんと答えるでしょうか。 「誰かのためになるような事を見つけて頑張ればいい」 「誰かのためではなく自分のために何かをしなよ」 色々な意見が出ると思います。正解とはあるのでしょうか。 結果から言えばどちらも正解だと思います。 いや、正解という言葉ではなくどちらの思考も行きつく場所は同じというべきでしょうか。 誰かのためにの精神 危険なのはその精神が「自己犠牲」からきているケース 誰かのためにで悲しみを生んではいけない 自分のためにの精神 どちらも行きつく先は一緒 誰かのためにの精神 自分が出来る事、持っている物を使って誰かに何かをしてあげたいという気持ちは大切なものだと思います。 「思いあがっている」という意見を持つ人もいるでしょう。しかし、大体の人が生きていく中で自身が持ちうるものを人に提供して生きていると考えれば思いあがるという事
私は、「べきべき人間」でした。 いや、正確に言うなら今なお気をつけていますが、油断するとついつい何かをする時や発言をする時に「~ならこうするべき。こんな時はこうあるべき。」と考えてしまいます。 皆さんも「べき」という思考持っていませんか? この「べき」という思考を持っている人って比較的多いと思うんですよ。 そして、この「べき」に支配された私は考えた訳です。なぜこんなにも「べき」という考え方が癖になっているのかと…。 べきと思うのは何故なのか 学校などで学ぶ「べき」とは 本などで学ぶ「べき」とは 世間の反応から学ぶ「べき」とは 親から教え込まれる 自身の経験から得た「べき」 「べき思考」の弊害 「べき思考」からの脱却 べきと思うのは何故なのか そもそも「〇〇するべき」とか「こうあるべき」という思考ってモデルケースがあるからそう思う訳ですよね。 では、そのモデルケースってどこから得たものなので
見え方は投影、捉え方という言葉があります。 つまりは、自分に見えているものが全てではないという事です。 なんか凄くスピリチュアルな表現になってしまいました。 見ているとは、目で見ているという事だけではなく感じるや思う事も含めての事を指しています。 人間の構造は、目から入って脳で処理されて目の前に投影されると言われています。 心霊などは霊能力というものがあって見えている人もいると思いますが、恐怖からないものを生み出しているとも言われています。 ですが、目から見えているので本人からすると実態のある何かなのです。なので、本人からすれば見えていて他の人から見えてないというのも事実です。 では、なぜそのような現象が起こるのか。 一説には、脳が見えているものを投影する時に記憶の画像も一緒に映し出してしまうという事があるようです。 明確なソースはなく人から聞いたものなので真偽は不明となりますが、幻覚の症
「身体は借り物だから」 この言葉を言った方をご存じでしょうか? 身体だけではない借り物 自分の物という感覚が生むもの 守る事の大変さ 借りているという認識なら 大女優の樹木希林さんが全身ガンを患った際に言われた言葉です。 この言葉って非常に深いと私は思いました。 身体は借り物というと量子学的には~とかスピリチュアル的には~という言葉も出てきそうですが、そういう事ではなくてそういう感覚が大事なんじゃないかと思ったのです。 身体だけではない借り物 借り物って身体だけではないと思います。消費されてなくなってしまうもの以外は全て借り物なのではないかと私は思った訳です。 お金があるので物の売り買いが存在します。しかし、その物もお金で買っているので自身の物のような感覚になりますが、自身の存在が消える時に持っていける訳でもなくこの世に返すという事になると思うのです。 「お金なんていくら持っていてもあの世
子供を見ていると想像力が豊かだなぁと感じます。ふと、「私の想像力っていずこへ?」という疑問が…。 歳を重ねると色々な経験と常識を吸収します。 その変わりに徐々に「想像力」というものが失われていくように思います。 頭の中でこれこれがこうなるからもしかしたらこうなるかもなんて事を想像します。 そして、それになんの疑いもなく行動にうつせれば良いのですが、 「それをやるためのリソースは?」 「それをやる意味は?」 「それをやってそうなる根拠は?」 なんてつまらない言葉が頭の中で浮かんでくる訳ですよ。 何かやる前に理論武装したがる自分がそこにいる…。 仕事で分析などをしていたせいか常にそう言われる想定が癖になっているのでしょう。確かに仕事では大事なスキルだと思います。しかし、それがベースになって誰かに何か言われた時の想定込みで想像を具現化できるか否かを考えるって想像力を欠如させていく原因だと私は思う
「ポジティブであれ」と言われます。 確かにそれは「ネガティブ」よりもはるかに心の状態は良いでしょう。だけど、それってある意味不自然だと思いませんか? 今日は、そんなポジティブとネガティブについてお話をしていこうと思います。 ポジティブ思考が良しとされる背景 ポジティブだけというのが不自然 ポジティブもネガティブも人生に必要な存在 ポジティブ思考が良しとされる背景 辛い事があっても苦しい事があっても愚痴や弱音を吐かずポジティブに考える事がポジティブ思考っていうイメージありませんか? おそらくその背景には、うまく行っている人なんかが、どんな状況でも弱音も吐かずにポジティブでモチベーションも高くガンガン目標を達成している。そして、そういう人の言葉にはネガティブが存在していないというイメージがポジティブ思考でなければならないという事に関係していると思います。 でも、実際自分でポジティブを心がけてい
本日は、「主観的になりすぎていないか?」という事をテーマにしていこうと思います。 主観的とは 過去の記憶などが影響する主観 記憶する際に脳が行う処理 一般化や歪曲が招く都合の良い記憶 主観が強い人の口癖 主観が強すぎると起こる問題 今一度考えてみる 主観的とは 主観的の意味なんて知っているという人もいると思いますが、今一度正確な意味を知る為に記載すると主観的とは、自分ひとりのものの見方。感じ方。などを指します。 主観的という言葉の意味はこれにあたりますが、ものの見方や感じ方という部分が非常に深い部分となります。 過去の記憶などが影響する主観 ものの見方や感じ方は、過去に経験した事などの記憶が大きく影響してきます。 それらの経験が主観を形成する元になります。 非常に記憶が重要となります。しかしながら、脳は記憶する際にとある処理をするという事は知っていますか? 記憶する際に脳が行う処理 以前、
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