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掃除・片付け
koheikondo.hatenablog.com
音楽において、表現・記号を構成している構成単位として、どの大きさのレベルを意味をもった一つの構成単位としてとくに意識して音楽を作っていくのかということは、音楽を作っている局面それぞれで変わっていくものなので、単純化はできないことなのですが、敢えておおまか言えば2つの方向があるように思います。 1.非常に細かい構成単位に分析して細分化してから、再構成する。 2.言語における単語や熟語のように、ひとかたまりの旋律やリズムなどを、音楽的な意味をもった一つの構成単位(キャラクターと言えるかも)と考え、それを積み重ねたり、それに変化を与えて成長させたりする。 このうち、前者1の傾向は20世紀ヨーロッパの現代音楽、前衛音楽において、非常に目立ち、最も極端な例は、音高、音価、ダイナミックス、音色のパラメーターにまで分解するセリー音楽の思考。さらに、音響そのものまで分析再構成するスペクトル楽派かと思います
こんなに困り果てている茂木健一郎 http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217/ ここまで予定調和のないセッティングの対談も珍しい。 高橋悠治は小林秀雄の「モオツァルト」がモーツァルトが音楽を作った現実のプロセスに関わらない文章に過ぎないと指摘しているわけだ。ヨーロッパの音楽への単なる印象と個人的な思い入れの美辞麗句賛辞を書くことが何故か権威をもった「評論」として通用してしまうクラシック音楽評論の舶来賛辞文章消費文化のレベルに攻撃を加えている。 一方、茂木さんは、小林秀雄がモーツアルトの音楽をきっかけに個人的な情緒を美辞麗句で飾った文章は、それ自体が文学作品だから作曲に役立たずでも良しとする立場だな。 茂木さんにとっては小林秀雄は特別に圧迫感を感じる権力ではないから、素朴な一人の音楽愛好家である文学者の文章として受け入れられる
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