サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
掃除・片付け
mushimori.hatenadiary.org
君が代伴奏拒否に対する処分に最高裁が合憲判断を下したことに関して、いくつかブログを見て特徴的だったテンプレな言い方についてちょっと書いておきます。 そのテンプレというのは「自由は大切だが行き過ぎはよくない」というもの。細かい違いはありますがだいたいこういうことを言っているブログを複数見かけました。 さて、なぜ彼らはこのような言説を述べるのでしょうか。いくつか考えられると思いますが、一つは国旗国歌というものに対する態度というものが、彼らの中では決まりきった特定のイメージで描かれているということだと思います。恐らく彼らのような言説を述べるほとんどの人たちは国旗国歌というものについての明確な思想なり考えなりは持っていません。国旗国歌に対する態度はいわば日常の「風景」あるいは「常識」のようなものとしてある(あった)のだと思われます。そこに「伴奏拒否」というような事件が起こった場合、それは彼らにとっ
建築系の友人から昨日聞いたのだが、僕の世代の人間から見ると80年代の建築というのはかっこ悪いらしい。というより、「その建築」が「80年代」にあるとかっこ悪いということのようだ。 そういった建築を設計した人たちというのは現在50代から60代くらいで、その下の40代の人たちは「そういうのもアリなのかな」と思いつつ「乗っていた」のだというふうにいうという。かっこ悪いことには同意するらしい。しかしながら、設計した世代の50代から60代の人たちは、それらの建築がかっこ悪いということに同意せず、「かっこ悪いですよ」と言うとむっとした表情になってどこがかっこ悪いのか問い詰められるのだという。 そして友人によるとそのあたりの話はディズニーランドがかかわってくるらしい。そういえば大塚英志の『〈おたく〉の精神史』にディズニーランドの話があったなと思いつつ、友人との会話は終わった。 ホームレスに対する、コンプレ
id:annntonioさんのところより。 教育基本法「改正」情報センターの市民署名企画。前回はあっという間に2000人を越えました。政治状況も会期もギリギリですので、どーか、なにとぞ、趣旨(下にリンク掲載)拝読の上、ご賛同いただける方はご署名のご協力をお願いいたします。 また、こういった取り組みをいたしておりますことへの告知にも、ご協力いただけますと幸いです。 「市民緊急賛同署名」の趣旨:http://www.stop-ner.jp/061206shomei.htm 以下も賛同いたしまする。 【転載・転送大歓迎】お知り合いの方にどんどん転送してください。 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 政府法案の今国会における採決を阻止し、法案の徹底審議を実現するために 「【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名を始めま
まあいつも言うことですが世代論というのは雑駁なものなのであんまり信用しない方がいいとは思いますけれども、やっぱり人間というのはその時代の影響を色濃く受けるものでして、一人の人がそのようであるのはやはり「社会現象」としてそうなっているという部分が大きいものです。 それでまあ最近僕が考えているのが団塊ジュニアと呼ばれる人たちのことでありまして、狭義には70年代前半生まれの方々のことを指すようでありますけれども、この方たちの特徴というのが僕にはどうにも不可解に思えるのであります。 団塊ジュニア世代の特徴といいましてもピンとこない方も多いかもしれません。ちょっと古い分析ですが10年ほど前に橋爪大三郎が書いたコラムがあるのでそれを参照してみましょう。 団塊ジュニアの特徴 ・適当な文化アイテムを使って先行世代との切断をすることができていない=前の世代となんとなく連続していて特徴がない。(団塊世代の先回
Apemanさんがご自身のブログの中で、「この国は被害者が叩かれやすいのではないか」ということを述べておられる。 http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061130210135/index.html 日本が「殺人事件が少ない代わりに自殺が多い社会」であるのは、被害者が自罰に走ってしまう傾向があるからではないか、と何度かここで書いた記憶があります。それはなぜかと考えると、一つには「犠牲者非難」が起きやすい社会だからじゃないか、と思うんですね。「苛められる方にも責任がある」というやつです。もしこの想定が正しければ、「復讐しろ」という主張はモラル保守のマッチポンプですね。 僕はこの見解はかなり的を得ているのではないかと思う。では、なぜこの国では「被害者」が叩かれやすいのか。それは「被害者」であることが
今回の教育基本法改正論議においては、凶悪な少年犯罪や規範意識の低下、フリーター・ニート・ひきこもりなど、様々な恣意的「教育問題」が語られ、あたかも教基法を改正することでそれらの問題を解決することができるかのような言説が改正を後押しした。これらの言説の虚妄を突くことは大切であるが、現代の子供たちが抱えている特徴的な「新しい問題」というものはやはりあるのであって、そうした問題をどう語っていいかわからない不安から、安易で短絡的な言説を生み出してしまっている側面もあるように思われる。 今後の長期的な教基法問題を見据えるに当たって、現状において子供たちを取り巻いている個別の問題から対応策を議論し、そこで得られた結論から「この問題を解決するには現状の教育はむしろこのように変えられなければならない」という方針を打ち出し、それをもって「その改正案は現実に対応できないよ」という対抗をするべきではないだろうか
教基法改正に関するタウンミーティングでやらせがあった問題については、はやく安倍首相は退陣しなければならないのだが、二階氏の発言はやらせに輪をかけてとんでもないのではないか。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061110-00000198-jij-pol また、二階氏は、野党がタウンミーティングでの「やらせ質問」などの真相解明が先決としていることに対し「教育基本法を60年ぶりに改定しようとしている。それに比べたらやらせがあったなんてつまらないことだ」と語った。 mojimojiさんは「バカな言い訳」と切り捨てられているけれど、これは「バカな言い訳」どころの騒ぎではない。「議論なんかしなくてもいい。黙って政府の決定に従え」という考え方を露骨に示したのであるから、これは、民主主義における決定の質を高めよう、この社会をよりよい状態にしていこう、という意志が全
後藤和智氏が野田正彰氏の若者に対する見解を批判している記事俗流若者論ケースファイル61・野田正彰: 新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~を読んだのだが、少し割り切れないものを感じたのでメモを書いておく。 社会学者による「最近の若者」論 最近、北田暁大、鈴木謙介、浅野智彦*1の著書を読んでいて気づいたのだが、三者とも若者の現状を分析する上で取り上げている、ある本がある。 それは社会学者土井隆義の『「個性」を煽られる子供たち』である。僕自身はこの本をいま注文しているところでまだ読んではいないのだが、「最近の若者」についての信頼の置ける社会学的分析として評価されているようである。 北田の『嗤う日本の「ナショナリズム」』では土井を引用しつつ以下のように書かれている。 こうした窪塚的な「思想」を、どこまで一般的なものとして捉えることができるかは、もちろん議論の余地がある。しかし、各種のデータ
まだ内藤朝雄さんのアレも読んでないけど。 ところでいじめに関する語りでこんなものがある。 自分はいじめが悪くないとは言ってないですよ。ただどうせ社会に出たら理不尽なことがあるのだからいじめられる方は処世術を身に着けるべき。 あるいは。 いじめは確かに悪いが、いじめられている方もいじめられる原因があるのでそれをなくす努力をすべき。 これらの言説は「いじめは確かに悪い」と一応断る点が悪質である。そして必ずその後に「でもいじめられる方だって……」ということばが続き、結局「いじめられる方が変化すべきだ」ということを言っている。 こうした言説について、「問題を分節化しているのである」と語ることは果たして正当といえるだろうか、いや、正当ではない。これらの言説は問題を分節化しているのではなく、「いじめ」という「問題」を構成する要素を「相互無関連化」させているのである。「いじめは悪い」が「いじめられる方は
最近「死ぬ死ぬ詐欺」*1という言説がはやったみたいだ。率直に言えば「死ぬ死ぬ詐欺」の言説はおかしいと思う。 ちらちらと見ていると、どうやら「2ちゃんねらー=ネット右翼」の特徴を表していた出来事だったようだ。彼らは基本的にこういう騒動に参加することで一種の自己実現をしている。彼らは自分たちの立場を正当化するためになんらかの「社会正義」を偽装することが常であるが、その実具体的な社会構想はまったくない。それもそのはずで、彼らはイベントに参加する一瞬一瞬に立ち現れる自己像、「私が私であることの感覚(または社会的承認)を与える(ように見える)物語」に酔っているに過ぎないからだ。そのため彼らの議論はきわめて狭い範囲の立証によって正当性を獲得しようとするものに終始し、問題を歴史性や全体の文脈から総合的に捉えることができない。またそのことと表裏一体のものとして、「狭い範囲の論理によって全体を否定する」とい
最近初歩的なことをもっと勉強しようと思って政治の基礎の本も読んでいるのですが、mojimojiさんの記事「国民主権をどう考えるか」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061006/p1を読みまして、また少しずらした観点からも何か言えるかなということで、以下のコメントについて言及します。 id:ssuguru氏のコメントを取り上げよう。 行政府だって国民主権および(間接的だけど)民主的統制のもとに運営されているのだから「民主主義を否定しない限り」というのは言い過ぎ。適切で痛烈な批判を望む。 民主主義は「法の支配」を出発点としており、民主主義の手続き自身もまた法律によって定められている。これは「民主主義という制度自体を、民主主義の手続きを通して新たな法律を定めることによって否定する」ことが可能であるということを意味する。ドイツのワイマール共和国からナチスドイツの独
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2517517/detail?rd 追加メモ http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061001i4w1.htm さて、給食費滞納の話ですが、誰が書くかなあと思っていたら案の定id:mojimojiさんが書きましたね*1。「給食費とか、公費でやれよ」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061002/p1と。 なかなかこうした当たり前の発言が出てこないのは、やっぱりソーシャルダーウィニズムにみんな毒されているんだなあと思います。「現状の社会的枠組みの中でものを考えよ」とソーシャルダーウィニズムはささやきかけてきます。前回はソーシャルダーウィニズムは社会構造や制度を変えるという発想がないと書きましたが、正確にはもっと抽象的な枠組み、
id:kaikai00さんの記事子どもの暴力は表象にすぎない - 今日行く審議会@はてなに書かれていることについて考えてみたい。僕も朝日の記事を読んだときにkaikaiooさんと同様の違和感を感じていたのだが、問題としたいのは朝日の社説のような発想の根っこは何かということである。 僕は朝日の社説のような発想の根っこはソーシャルダーウィニズムにあると考える。ソーシャルダーウィニズムとは優勝劣敗、適者生存の原理によって理想的な社会状態に至るとする目的論的自然観に基づいた社会理論である。ダーウィンと同時代人であったハーバート・スペンサーが祖であるとされ、現代においては新自由主義的な思想潮流がこのソーシャルダーウィニズムの潮流を受け継いでいるといってよい。ウィキペディアの解説ではスペンサー自身は自由主義的な思想を持っていたとなっているが、僕はスペンサーの思想についてそこまで詳しいことを知っているわ
前回の「自己肯定愛と自国愛について」に対していくつか反応をもらったのでもう少し書いてみる。 コメント欄にも書いたが、「自分に優しくしてもらえなかった人は他人にも優しくできない」という言説については僕も何人かの方と同様疑問を持っている。しかしそれに対する違和感、ちょっと違うぞ、という声を拾うために敢えてその言説を使っているのである、ということを表明しておく。 id:kurotokageさんからご指摘いただいたとおり、上記の言説は「ネット右翼・バックラッシャーは低階層」説にも繋がるものである。この説が実証的に裏づけられているかどうかは僕はわからないのだが、バックラッシャーの主要層は確か従来の高年齢保守層なのではなかったか。 「低階層」であるということと「優しくされなかった」というのはそう簡単に一致するものだろうかということがある。社会的位置づけとして「低階層」であっても、個人的経験として充分優
最近、id:kmizusawaさんのブックマークコメントの中に、「自分がやさしくしてもらえなかった人は他人にも優しくできない」ということばは「自分の国を愛することができない人は他国を尊重することもできない」ということばと似ているのではないか、という意味のものがあった。 確かに両者の論理構造は似ているが、自己肯定と自国愛にはやはりそれなりの距離が存在しており、直ちに同列に考えることはできない。 むしろ、自己肯定があるのならわざわざ国家に自己を委ねる必要がないとも言える。そうすると、逆に言えば結構ベタに右翼っぽい愛国とかの主張をしているタイプのネット右翼とかそこらへんのにわかニッポン主義者たちは何らかの理由で自己肯定感を築くことができなかった人たちなのかもしれない。 最近は自己と自国が同一化してしまっていて、自国が非難されると自分が非難されたように感じてしまう自己の未成熟な人が多くて困るのだが
やはりペットの扱いについてまだ気になるのでもう少し書いておく。 ペットが人間の生活圏の中でなければ生きていけないとしても*1、ペットの扱いがまったくの「自由」であっていいということはないと思う。 家畜であれば上質の肉やらミルクやら耐病性やらの「実用的な」問題としてそれらを扱うということがあると思うが、ペットというのはそういう「実用的な」ところからは離れた場所に存在している。 僕はアニメ「ドラえもん」の中でスネ夫が血統書つきの猫を自慢していたせいか、血統書つきのペットというものに対して昔から大きな嫌悪感情を持っているのだが、ペットの血統書というのはいったい何の意味があるのだろうか。あるいは僕が無知なだけでペットの血統書というのはそれなりの合理的な理由があって価値があるのかもしれないが、どうもそうではなくてそこにはなにか人間社会において「血筋」をことさら重要視する下劣な感情と似たものがあるよう
大塚英志の『子供流離譚』をいま読んでいる途中なのだが、ここで書かれていることはいまの社会にもまったく言えるように思う。それで最近流行の*1「子供を守る」ことに関して、本書を参考にして少し書いてみようと思う。 最近立て続けに幼い子供が犠牲となる事件が起こったのは事実である。朝日新聞が「子供を守る」などという特集を組んだりもして、地域でいかに子供を守るかということが大きく話題になったが、僕は正直に言ってその風潮にあまり好意的にはなれない。別に僕は子供を守ることそのものに対して異議を申し立てたいわけではないが、大きく盛り上がった「子供を守れ」の声はやはりどこか過敏であり、異常さを持っているように思う。 そもそも、大人たちは「子供」という存在に対してどういう視線を投げかけているのだろうかということが気になる。そのことを考える手がかりとして、酒鬼薔薇事件のあたりから延々と繰り返されている少年犯罪の「
支配の正統性 マックス・ヴェーバーによる支配の正統性のメモ書きです。 ①支配の正統性とは、服従者が支配を承認し、それに服従する可能性のことです。 ②なぜ支配の正統性を問題にするのかというと、むき出しの実力のみに頼る支配は不安定で永続しにくいものだからです(例えば強盗の親分とその仲間)人々が支配を安定して受容する根拠として、「利害関係」と「支配の正統性」があるのです。 ③そして正統性には3類型があります。 伝統的正統性 そのうちの一つが伝統的正統性です。これは伝統的秩序の神聖性への信仰心(恭順)にもとづきます。 日常的、人格的、情緒的、恩顧的、血縁的な関係を特徴とし、主人と臣下・下僕の関係が典型です。 ここでは「主人」も伝統に拘束されますが、伝統の外部は恣意が支配します。天皇制もこの伝統的正統性の中に含まれるといってよいでしょう。 伝統的正統性はなぜ成立するか 伝統的正統性は伝統的秩序の神聖
生物から見た世界 (岩波文庫) 作者: ユクスキュル,クリサート,Jakob von Uexk¨ull,日高敏隆,羽田節子出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2005/06/16メディア: 文庫購入: 23人 クリック: 209回この商品を含むブログ (139件) を見る 実はドーキンスの『利己的な遺伝子』増補新版を訳した人と訳者が同じです。 ユクスキュルは、生物は機械ではなく、機械操作係だと主張します。また、生物は客体ではなく、主体であると主張します。 生物が主体として感じ取る世界をユクスキュルは「環界」と呼んでいます。生物は様々な外界刺激の中から、自身の環界において世界を認識し、行動しているというのです。 大変刺激的な見方を提示している本だと思いました。ラ・メトリの『人間機械論』と比べて読んでみたいですし、動物行動学という学問にも興味が出てきました。 ところでこのユクスキュルの考え方
以前id:mojimojiさんのエントリの中でパレスチナの話があって、イスラエルは強大な軍事国家で明らかにパレスチナ人のほうが抑圧される立場の側に置かれてるんだから、自爆テロだの何だのといったって、パレスチナ人寄りであることが中立的でないなんて言説はおかしいんだ(大意。あとで見直して間違ってたら修正します)ということが言われていたと思うのだけれども、これが最近いろいろなところで当てはまるんじゃないかとふと思った。 具体的には在日外国人やフェミニズムに関する言説に対してそれらが「中立的」でないとか「他の被抑圧者」を無視しているとかいったことを言う風潮があるように思う。あとは「客観的」でないというのもセットで加えられることが多い。 しかし、それらの「中立」とか「客観」とか「偏向」とかいう指摘は全くもって単なる欺瞞である。それらは「現実」としての非対称的な構造問題を全く無視しており、表層的な言葉
えっと、『バックラッシュ!』はこれから注文します。多分キーワードをたどってここに来る人がいると思うんですけど、素人が質問するだけなのでそこのところをよろしくです、どうも。あ、あと神の創造を信じてます、無理に相手しなくていいです。 さて、前置きしたところでかきかき。 http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060708id:kalliklesさんのところのコメント欄に関してです。『バックラッシュ!』の書評を受けてのもの。全部貼り付けて眺めながらうんうんうなってみる。注目したところを太字にします。 # yamtom 『単に日本の現在のバックラッシュ状況に直接的な関わりが薄いだけで、個人的にはDavid Bussは十分バックラッシャーではないかと思います。』 (2006/07/09 02:10) # yamtom 『「現代の古人類学で主流の考え方も 客観的でなくて偏見
草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN 凶悪な少年犯罪-「脳内汚染」ゲームが脳を汚染する 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN 2006年06月28日 成城トランスカレッジで知った「日本会議系のブログで岡田尊司という精神科医のゲーム悪影響論のインタビューが掲載されていていろいろ物議をかもしている」話について。 「良識」ある人々は岡田氏の論説を「トンデモ」として一刀両断にするのがよいという「空気」があるっぽいんだけど、これはそう簡単な話ではないような気がする。 結局岡田氏の失敗はネット上ではすこぶる評判の悪い「ゲーム脳」的な議論をし、さらに統計的にすでに否定されている「凶悪」な少年犯罪の増加を引き合いに出してしまったからではないだろうか。ためしに「ゲーム脳」っぽい疑似科学と思われる部分や統計的な間違いの部分を取り除いてみてみると、岡田氏の主張は意外と説得力があるように思う。 岡田氏の主張で
id:kurotokageさんのところで丁寧な教基法「改正」批判の記事が書かれているのだが、その記事に寄せられたコメントがいまの日本の「空気」というか「ことば」の質を正確に反映しているように思えたのでちょっと書いておきたい。以下、件のコメントの引用である。 錐生 零 『初めまして。良く見させていただいております。 一応遊戯王プレイヤーの底辺プレイヤーとして色々やっております。余りこういった場に慣れていないのでご容赦の程を。ディベートは独学でやりましたが、実戦経験が全く無いのです。 >私の人生は高校卒業から始まったと、本気でそう考えています。 この文章のおかげで多少は頑張れそうです。私の人生はまだ始まっていません(高校は卒業しましたが。浪人の身です。) 前述の愛国心教育に関しては、とても興味深く読ませていただきました。私は最初は、別にたいしたことではないと思っておりましたが、「評価する・され
2006-06-09で先日発表されていた文章を読んでいて、『小説トリッパー』の大塚英志と斎藤環の対談を思い出した。広田照幸の議論の中で僕が唯一同意できない点もここである。ただし「(元)登校拒否系」の主張にそのまま賛同するわけではない。 ひきこもり・ニートもまた、さまざまな差別・偏見の対象となっています。これに対して、「いや、それは彼らの実態からずれている。彼らの真の姿は○○だ」と反論する人々も現われてきました。しかし僕は、ひきこもり・ニートと分類される人々の「真の姿」が何であるのかということには興味がありません。偏見に反するような「実例」を指摘したり、統計的なデータで偏見を覆すことは、「良いニート」「悪いニート」を生み出すことでしょう。しかしどんな統計テクニックを駆使しようが、僕のようなダメ人間が一定数いることは否定しようがありません。2ちゃんねらーがよく知っているように、「ダメなやつは何
特別委員会での稲田委員の発言。id:t-hirosakaさんのところで知った「給食のせいで親族殺しが起きる」と述べたちょっとアレゲな人とまったく同じことを言っているそうなので*1探してみた。 ○森山委員長 次に、稲田朋美君。 ○稲田委員 自民党の稲田朋美でございます。 いよいよ、戦後六十年を経て、教育基本法の全面改正という時期に来ました。私も、昨年当選したばかりの新人議員ではございますが、この時期にこの場所で、自由民主党の一員として、また立法府の一員として、教育基本法の全面改正の議論に参加できることの責任と使命を果たしたいと考えております。 さて、今なぜ教育基本法を改正しなければならないのか、一体、現行教育基本法に何が欠けていたのかということでございます。私は、この問題を考えるに当たって、戦後体制をどう見るかという観点を避けて通ることはできないと思います。 御承知のとおり我が国は、戦後約七
来るかな、来るかな、もう来ないかな、飽きたのかな、と思っていたら来た。「星」さんね。 あの流れ見た人が、上記の発言を見れば全て納得するでしょうね。 どんな思想を持った人のブログなのか。 ネット右翼認定されても「そりゃ、左から見れば右だわな」程度のものでしょう。 「反論お断り」の人の発言に 説得力などあるわけがないし、求める人もいないと思います。 今回の閉鎖劇も筋書きの読めるものだったのでちょくちょく見に来ていましたが 予想どおりですね。 別に閉鎖する、しないはどうでもいいのですが、 挑発的な上記セリフに釣られて試し書きしてみました。消されるかな? 消しましたよ。こうやっていちいち相手するとまた延々とくだらないやり取りをすることになるのかな。「もう相手をする気も失せました」とか「あなたの主観でくだらないと言われても」とか言ってくるんですかね。まさか本気で「反論」しているつもりだったとは。恐れ
教育改革国民会議で何が論じられたか 作者: 河上亮一出版社/メーカー: 草思社発売日: 2000/10メディア: 単行本 クリック: 6回この商品を含むブログ (3件) を見る 広田照幸の『《愛国心》のゆくえ』と一緒にいくつか借りた教基法「改正」問題本の一つ。プロ教師の会の河上が教育改革国民会議の様子をメモしたものをそのまま本にした現場報告の形になっている。 これを読むと現在の教基法「改正」問題が、「愛国心」に集約されるのはなぜかということの一側面が見えるように思う。 河上によれば、国民会議において、実は多くの委員が「エリート教育」の志向を持っていたらしい。いわゆる「世界に羽ばたく日本人」のようなキャッチフレーズとも関連するものだと思うが、いままでの日本の教育は横並び平等主義で真のエリートを作り出す環境がなかった、これからはもっと世界に通用するような日本人を作らなければならない、という主張
id:annntonioさんのところより。 国家に盲従する人間が愛国者なのではなく、国家を批判したとしても国家のあり方を真剣に考える者こそが本当の愛国者である。僕はその意味でも愛国者ではないが、少なくとも現状の「改正」案を推進している人たちよりは十分愛国者だといえるだろう。 公開シンポジウム 教育基本法改正案を検討する −教育の自主性を保障する教育基本法はどこへ行くのか?− 主催 日本教育法学会教育基本研究特別委員会 去る4月28日に教基法改正案が閣議決定され、国会に提出されました。本特別委員会でも緊急に法案の検討を行い、そこに多くの問題点を見出してきました。法案の最も根底的な問題は、それが教育基本法を、教育の自主性保障法から教育の権力統制正当化法へと基本精神を180度転換させていることです。 特別委員会における検討の成果を広く市民・NGOの方々に広めるとともに、市民・NGOの方々と法案の
ようやくパソコンが復帰したと思ったら、ネット接続の調子がいまひとつでちょっと萎えております。そのためリンクとかもしにくくてめんどうなので省きます。 さて、例のフェミ系の本が撤去された話ですが、やっぱりこれも公共性の問題なのかなと思います。成城トランスカレッジのchikiさんもちらっと言及しておられますが、日本社会における公共性についてはもう少し突き詰めてみる必要があるだろうな、というのが大塚英志の影響を受けて最近考えるところです。 この間読んだ広田照幸の『《愛国心》のゆくえ』でも触れられていましたが、戦後の日本はアメリカ占領下、また東西冷戦構造における西側陣営という国際的にはかなり限定的である意味「安定」したポジションの中で、国内政治における類型的対立に終始した言説環境が作られてきました。右翼も左翼も、一国主義的に閉じた枠組みの中に安住し、他者(たとえば在日韓国・挑戦人の人たち)と対話する
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『mushimoriのノート』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く