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猫
nethica.hatenablog.com
遅ればせながら 2018年2月も終わろうとしていますが、ふとした時に、生きているぞ、活動しているぞ、などとご報告をさせて頂ければと。 さて2017年は前回5月のご報告以降、雑誌『散歩の達人』では順調にお仕事をいただいておりました。 以下にそのあらましを。 『散歩の達人10月号』柏・松戸・流山大特集(2017年9月21日発売) 「手賀沼一周20kmポタリング」(63〜65ページ)。 千葉県の手賀沼を取材しました。 担当編集者さんによると手賀沼は特集圏外の我孫子駅が玄関口ですが、柏市にかかる部分も多いということで組み入れることにしたそうです。 ランナーの人にはおなじみの場所みたいですが、私は全く知りませんでした。 東京から快速約40分で到着。そこには広々とした大自然が広がっています。基本はポタリング(自転車を使って、ゆったりと散策することを最近はそのように言うそうです)がおすすめなのですが、歩
皆様お久しぶりです。 前にお知らせした『散歩の達人』3月号のお仕事以降、ここ4ヶ月ほど雑誌『散歩の達人』でイラストマップを担当させていただいたので、それらのご報告です。 『散歩の達人4月号』大特集 東京ディープ案内(3月21日発行) 「夫婦で歩く吉原」(24、25ページ)。 吉原遊郭の江戸時代の痕跡をたどりつつ、ソープ街としての吉原(千束3〜4丁目)もひやかし的に観察するという企画。 元々は夫婦で浅草七福神巡りをした時に弁財天を祀る吉原神社を訪れ、その時に通りすがったソープ街の妖しい雰囲気は「見てるだけでもおもしろいなぁ」と思ったのがきっかけ。 何の気なしに企画を出したらそのまま通ってしまったもの。 吉原の鳥瞰図を水彩で描くというチャレンジをしましたが、ほぼ地獄の作業。 最後のほうは徹夜しても周辺のカットが間に合わず、昼のバイトの予定(肉体労働!)を入れていたのでそのまま出勤し。帰宅してか
2月21日(昨日)発売の雑誌『散歩の達人』3月号(大特集 武蔵野ユートピア「三鷹、武蔵境、小金井」)にイラストMAPを3ページにわたって描かせて頂きました。 「はけの道17km一気歩き」という記事です。 『散達』に登場するのはほぼ一年ぶりです。 今回は水彩でイラストMAPを描くという荒技に挑戦しました。 なかなか面白い仕上がりになったかと思います。 あ、ちなみに残念ながら猫は登場致しません。
「楽しくてキラキラ輝いている私はきっと素敵に見えるはず」と思ったら大間違いだ!!
アナタの見た奇妙な悪夢は、全て猫を象徴しているのです。アナタは日頃、やりたくもない仕事をさせられ、その上余計な責任を負わされ、親の前では良い子を演じ、学校では良い生徒を、パートナーには良き関係を、我が子の前では良き親を等々と色々と演じてきました。しかし本来、心とは自分本位で身勝手で我がままなものなのです。そうした抑圧された心が〝猫〟となって象徴的に現れているのです。ですから、抑圧を感じたアナタは断固として猫を飼うべきなのです。それが出来ないならば、出来るだけ猫に良い事を考え、行動に移すことをおススメします。
映画の「祝い」や「宴」など晴れがましい場面はその後の崩壊や死を予感させるものです(逆に「祭り」は再生を象徴していたりします)。 ベタな例だと兵士や消防士が結婚したりするとまあそれは死亡フラグですし、それが医者や弁護士だと家庭崩壊フラグだったりします。 映画『タイタニック』(以後ネタバレあり)では船の舳先で愛を語り、喜びの宴はさようならを告げる宴へと変貌し、別れの音楽と共に人々は生を求めて空高く昇る船尾をよじ上っていきます。船は結局沈んでしまい、主人公のジャックとローズは海に投げ出されてしまいます。海は星で埋め尽くされており(それは実際は漂流する人と瓦礫ですが)、まるで黄泉の世界のようです。さて冷たい海から生還するという事は、天国から堕ちてしまう事であり、宝石を捨てるという事は星を空に帰すという事だったのかもしれません。
大人気になったり「優勝」(wしたことが無いので実際はわからないんですけどね。 でも「ハングリー精神云々」なんて言葉があるくらいですから、才能があるのに不遇な扱いを受けていた方が、頑張って世間に認められようとするかもしれません。優遇されすぎちゃうと、確かにアイデアがヌルくなりそうな気だけはします。 でも人にもよるし、程よく人に褒めてもらえないと続かないし、全く認められないんじゃ「才能無し!」ってことで諦めちゃいそうですね。なかなか難しい案配です。
何かしらの理論や思想に基づいた「世の中のシステムはこのように動いています」という話を聞いて「へぇ〜」「ほぉ〜」と思ったり、適当にツッコミを入れたりしている時はイイのですが、それが政治的なものと結びついてしまうとすごく胡散臭くなるように思えます。
古いモノには、長い年月壊れず残ったということと、長く愛用されたという価値があると思いますが、このことを現在の経済でまともに評価する基準はありません。せいぜい「伝統の」「老舗の」といったキャッチコピーで表される「新品」か、骨董品のように美術品として評価するかになります。 「断捨離」ということが流行っていますけれども、「捨てがたきモノ」というこの不思議な存在についても、少しは考えてあげても良いのではないか、「手垢のついたような古いものは何故こんなに魅力的なのか?」ということについてもう少し気を配っても良いのではないかと、ふと思ったりします。
「自由」はあり得るかどうか、という存在論的な議論は様々ですが、「自由」にはその選択をした責任が伴うし、自由に行動することは自由の消去もまた意味します。 「希望」というものが魅力的なのは、自由にできる様々な未来が選択可能な状態で同時に現れているからで、その中から最も欲しかった未来を選んだとしても、それ以外の多くのものは犠牲にしなければなりません。従って、物を持つよりも願いに、現実よりも夢に大きな魅惑を感じるのだとアンリ・ベルクソンは述べています。 「自由」はあらかじめ設定した事象を自ら獲得したという追認のシステムなのか、それともある状態を自ら始める能力なのか。いずれにせよ、いつも命令されることに慣れてしまっている身では、いきなり「自由」といわれると戸惑ってしまうことも多いですね。
似たようなコトは以前にも話題にしたかと思いますが、今回は超能力が使えたとしてその実際を考えた場合はどうかというもの。 超能力が結果的にトホホな運用になってしまうという流れはよくある展開だし、大概の物語がバットエンドか超能力そのものの評価は未来へ繰り越されたりして終幕となるのが一般的かと思います。 で、なぜそうなっちゃうのかというのを物語の中で「人間は大きな力を自ら獲得することを恐れるのだ」とかなんとか説明しがちですが、あれってそんな大げさな意味ではなく、単に作劇の都合上、万能な人が成功してるだけじゃドラマにならないからじゃないかと。
多分、本当の創造性って、ゴロゴロしている中にあるんじゃないかと。 有閑階級とかじゃなく、貧乏で食べれてなくとも働かずに、暇を持て余してゴロゴロしつつモンモンとしつつという中から。
アレは貢ぎ物じゃないって説がありますね。猫にとっては「自分で獲物を捕獲できない君に代わって捕って来てやったゼ」ということだという話です。 本当にそうなんですかね。猫にどのように尋ねたと言うんですかね。 と、追求してもしょうがないので止めますが、いずれにせよこういう時の猫って男前。メスでもオスでもオットコマエ。 ちなみにありがた迷惑ですが。
例のポケモン騒動はすっかり落ち着いたようですね。 「実際に虫取りや魚釣りをすれば良いのに」などと無粋なコトはいいっこなしです。 現実にあるものを「表現されたもの」に置き換えた方が楽しくなる。というより表現を発したり受けたりするのがこの上なく楽しいと感じるのが我々なのだなぁと。 絵画しかり音楽しかり。ゲームもまた現実にあるものを表現し置き換えたモノなので、他人に迷惑をかけずモラルさえ守れば世界とゲームが多少ごっちゃになっても良いのではないかと(以前は多少は抵抗感がありましたが)。
とりあえず、以前にメインで使っていたサブマシンを復活させています。 ほったらかしてたMacBook Proですのでセッティングに手間取っていますが、昔なじみのかわいい奴です。 で、お酒をぶっかけちゃった方、つまり俗に水没させたMacBook Proですが、未だ起動せず……。 今、あんまり理性的でではなないのででで、『ネチカ』に文章をつけたり、皆さんのブログ訪問するのとかは明日からにしようかとおもっておりますす。 ああ、理性がどこかに……(泣
「文明も含めて全ては人間の本能ではないか」という命題は漫画版『風の谷のナウシカ』や『寄生獣』でも示されていたと思います。また「人間の行動は本能によって決定されているのかそうでないのか」という疑問は壮大な物語でなくとも、ほぼ全ての物語に見られるモノかもしれません。 その恋は必然か? その争いは不可避であるのか? と考えるからこそドラマが生まれるのでしょう。 とすると「人間は理性的な生き物だ」という命題は、いかにも官僚の答弁っぽく見えてしまうのです。 そうすると猫さんにこのように言われてしまうのですね。
iPhoneからですです。 使用しているMacBook に酒を大量にこぼしました。 自動的に電源切れたので、逆さにして水(酒)を切って、ドライヤーの冷風を当てています。 明日朝、電源入れて見ます。 はははははははははははははははははははははははははははははははははははは…ぐっすん。 どーなるっすかね。 というわけで、乞うご期待。 そんなわけで、明日、というか今日ですが、ネチカは画像のみになります。
あるものについて自分が判断した価値と社会的な、もしくは自分の外なるものが判断した価値と、あまりにもギャップがあると、色々な悲喜こもごもの問題が発生したりします。それが所謂「お宝」についてでも、もしくは自分自身の何かについてでも。 大概は知らなきゃよかったという場合が多いのですが、とは言え自身と世間とのギャップを知っておくのは必要かもしれません。もちろん唯我独尊を貫いてもかまわないですが。 そして注意すべきは自分が判断した価値と社会的に判断される価値とは全くの別物であって、イコールではないということです。
無我夢中で何かをしている時は、役割や立場、上下関係なんて関係無くなりますよね。たとえ命令されて何かをしていたとしても。上下関係が出来たり重要になってくるのは、創造の場ではなくてその後の収穫の時になります。 遊びが純粋に楽しいのは、夢中で何かした後に何も残らないからじゃないかなぁと。
意識を高く持ちすぎて細かい事を気にしすぎる関係も疲れますよね。 相手の言った事も自分の言った事も、多少間違ってても適当にスルーし合う関係が楽かなと。 互いボケ倒し合う関係といえば良いでしょうか。だらしない関係とはちょっと違うんですけど。 ちなみに、猫と飼い主の関係は飼い主がだらしなくデレデレゴロゴロしても、猫はある一定の時間が経つとプイッと何処かへ行ってしまうので適切な温度が保たれたりします。
人格者になって嫌いな人をを作らないようにしたいと思っても、なかなか難しいものがあるので、やはり嫌いな人は出来てしまいます。 その嫌いな人がピンチになったり落ち込んでいたりするのを見て、私は心の中でシメシメとホクソ笑んだり喜んだりするかなと思っていたのですが、実際はなんだか嫌な気分になったり、やり場のない気持ちになったりしました。 その時に私は、自分自身「多少は子供から成長したのかな」と思ったものです。 ある時、猫もそのような「矜持」のようなものを持ち合わせているんだなと感じて、感心したことがあります。 いつ、どのような場面だったかは忘れましたが。
子供の頃は無心で絵を描けていたのですが、ちょっと知恵がついて絵が描けなくなってしまったことがありました。 空って青だけじゃないよね? 緑って緑色だけじゃないよね? 肌って肌色だけじゃないよね?という問題です。 それを切っ掛けにして、絵に関する色々な問題がわき上がってきました。写実と抽象の問題やら、芸術とはなんぞや問題やら。 子供から青年期に掛かる一種のハシカみたいなものです。 私がそこから抜け出したのは、とにかく好きな絵をたくさん観ることでした。美術館でも良いし、画集でも良いし、雑誌でも良いし、何だって良いのでとにかく好きな絵を観ました。 そしたら、まあ、色は何だって自由に描けば良いし、デッサンも好きに描けば良いんだなぁと、しみじみ思ったし、目に映るもの全ては凄いんだな、とあらためて思ったりしたわけです。
21世紀になってから「ホントにもう次に何が起こるんでしょう?」と思うような事件が続きますね。 さて昔の様子を知っている「私」は、それを知らない誰かに、自慢げに過去のことを話したくなってしまったりします。 「あれは昔、アーだったんだよ、コーだったんだよ」という感じで。 興味を持って聞いてもらうには語り手の力量が試されたりします。 その中で、過去と比べて現在の何かを否定する目的で昔話をしている場合があったりします。 言いたい気持ちはわからなくもないですが、アレは止めておいたほうが良いかと。 聞かされた人達が体験出来ないことと比べられて、現在を否定されてもどうにもならないですもの。 過去と現在を語るとき、出来れば肯定的に語りたいものです。
役に立たなきゃゴミ同然という極端に資本主義的でシビアーなご意見については「でも一応は、燃えるぜ」と返してみます。 アイロニーやニヒリズムではない感覚で底辺の力強さを身につけたいですね。 猫のように美しく在りたいところですが、なかなか難しい。
ええと、あるブロガーさんのアドバイスにしたがって、タイトルに例のヤツをつけてみました。 ある種、【閲覧注意】物件でございます。 では、どーぞ。 どーん! ん? 若干地味でしたかね。ネチカの連載もめでたく本日100回を迎えまして。記念してちょっと大きく出てみました。 連載100回なのですが、〝注意〟して見て頂くと101匹の猫が描いてあります。最初の表題00番も含めるとそうなるわけです。 すみません。申し訳ございません。 坂津さんのこの記事に便乗してしまいました↓ www.kana-ri.com 【閲覧注意】につられて来てしまった人がもしもいたら、本当にスミマセン。 さて、上の写真は今まで描いた猫達の集合写真で御座います。並べるの、結構大変だったんですよ〜。 若干、順序がおかしく且つ並びが乱れましたが、なんとか101匹が1枚の写真に納まりました。 で、改めまして無事100回を迎えられたのも、日
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