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災害への備え
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進行:田坂博子(第10回恵比寿映像祭ディレクター、東京都写真美術館学芸員)構成:岡﨑乾二郎写真:新井孝明 開幕した第10回恵比寿映像祭では、光と影によってイメージを映し出す一方、そこに目に見えない現実をも浮かび上がらせる映像メディアの特性を指し示すキーワードとして「インヴィジブル」を総合テーマとしています。開催直前に行なった、造形作家で批評家の岡崎乾二郎さんへのインタヴューでは、この「イ...
■「映画」か「映像」か──意識と無意識 宇川直宏 こんにちは。みなさん第1回「恵比寿映像祭」にようこそいらっしゃいました。本日は松本俊夫先生と僕とで、「映画」祭ではなくなぜ「映像」祭なのかということを手始めに、映像について考えていきたいと思います。先生は1960年代初頭に『映像の発見──アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963)という本を出されていますが、その当時「映像」という概念はいったいどのような位置づけがなされていたのでしょうか? 松本 「映像」という言葉は戦前に寺田寅彦などが使っていますが、現在の意味で使われだしたのは50年代の後半で、何人かが同時代的に使い始めました。僕がこの本を書き始めたのは58年です。「映像」はぴったり対応する外国語がない不思議な言葉で、「イマージュ・フォトグラフィック」や、「イマージュ・シネマトグラフィック」といったように限定した言い回しがな
映像をめぐる議論を様々なジャンルの有識者を迎え、討議するラウンドテーブル。 それぞれのプレゼンテーションとフリーディスカッションにより、それぞれの立場から 映像論を持ち込みます。「Yebizo ラウンドテーブル season.01」は、映像詩、美術史、哲学、思想、生態学、テクノロジー等の角度から気鋭の論者5名が「映像の生態学」について語り合うという企画です。ラウンドテーブル上の議論を事前に2回行い、またフェスティバル当日は、その議論をもとに、ライヴ・プレゼンテーション形式でディスカッションを行うというものです。そのドキュメントをお楽しみください。 第2回恵比寿映像祭 総合討議「歌をさがして」 第2回恵比寿映像祭 プレラウンドテーブル RoundTable (All Discussion) 事前に公式ウェブサイト上で展開してきた議論をもとに、ライヴでおこなった最終討議です。メディア環境の激変
会期 2024年2月2日(金)~2月18日(日)[15日間]月曜休館 10:00–20:00(2月2日~2月17日/18日は18:00まで) アメリカのアポロ11号による月面着陸から半世紀以上が経ち、人々が気軽に月へ行くことも技術的に不可能ではなくなりつつあります。しかし、最先端の科学技術や理論以上に、一見それとは結びつかないようなアーティストたちの思考や実践が、新しい発見や創造につながり、月へ向かうための大きなヒントになるかもしれません。 恵比寿映像祭2024では、「月へ行く方法」という命題を、写真や映像を主とした様々な表現によってひも解き、アーティストだけでなく、そこに参加する観客とともに考えていく試みを行います。歴史的作品から現代作品まで、異なる角度からイメージの可能性を探ります。 *総合テーマは、土屋信子「30 Ways To Go To The Moon/月へ行く30の方法」展(
今回、映像祭のオフサイト(野外)展示として出させていただいた「The EyeWalker」は、真冬のビル風吹きすさぶ過酷な環境にもかかわらず、致命的なトラブルもなく無事終了し、さらに予想を上回る大きな反響をいただく結果になった。 今日まさに撤収が終わったので、この熱が冷める前に、作品を振り返ってみたいと思います。あまり細かく話す機会も無いし、せっかくなのでかなり長くなること覚悟でここに書いてみたいと思います。 ちなみに作品を知らない人には、ちょっとわかりにくい文章になると思いますが、読売新聞のサイトに詳しく動画で説明されているので、こちらを見ることをお勧めします。 http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/exonemo.htm 元々は山口情報芸術センター(YCAM)からの委託作品として、去年の10月に公開したEyeWalkerが、恵比寿でバ
歌の起源、ギリシア神話によればそれは、最高神ゼウスと記憶の女神ムネモシュネーとのあいだに生まれた9人のムーサ(詩神)たちにあるという。詩人たちをして歌へと駆り立てるのは、まさに彼女たちから与えられる霊感である。だが、それだけではない。ギリシア神話にはまた、謎めいた別の原初の歌い手が登場する。セイレーンたちである。 ホメロスの『オデュッセイア』(第12歌)によれば、上半身は女で下半身は鳥の姿をしたこの海の怪物は、「すき通るような声で歌い、人の心を魅了する」が★1、ひとたびその声を耳にするや、待っているのは死にほかならない。死とも踵を接しているほどに抗しがたい歌声の魅力。それゆえセイレーンたちの周りには、白骨と化した船乗りたちの屍骸がうず高く積まれているのだ。 だが、それにもかかわらず(それゆえにであろうか)、その「神変不思議な」歌声を聞きたいと欲したオデュッセウスは、魔女キルケーの忠告ど
1991年、イラクのクウェート侵攻で始まり多国籍軍の空爆によって急速に終結した戦争を受けて、ジャン・ボードリヤールは「湾岸戦争は起こらなかった」と述べた[*1]。それから10年後の2001年、世界貿易センターを崩落させた同時多発テロ事件を受けて、スラヴォイ・ジジェクは「現実界の砂漠へようこそ」と述べた[*2]。さらに10年経った現在から振り返ると、この2つの発言は、カタストロフの映像をめぐる発言として呼応しあっていたことに気づかされる 。 物議を醸したボードリヤールの発言は、けれども、戦地から遠く離れ、テレビ報道の映像を通して戦況を知らされた視聴者の経験をむしろ率直に反映したものであった。テレビゲーム戦争とも呼ばれたこの戦争は、歴史上初めて衛星同時中継された戦争であった。暗闇に飛び立つステルス爆撃機、夜空に輝く無数のミサイル、目標を追尾するミサイルのレーダー画面などの連日報道された映像は
■無意識の表象、生態映像メディア ドミニク こんにちは、ドミニク・チェンと申します。現在私は、ウェブ系の会社の経営とNPOの運営をしております。これまでお話された皆さんとの距離をジャーキングして聞いていました。その距離を縮めるために、まず映像をお見せしたいと思います。私が2回めのラウンドテーブルで話した内容は、未来像を想像して、そこから現在の人間の立ち位置を探ってみるという逆照射的なものでした。これは関西にあるATR(株式会社国際電気通信基礎技術研究所)の「ブレインロボットインタフェース研究室」チームが昨年発表した衝撃的な映像なのですが[fig.14]、BCI(Brain Computer Interface)と呼ばれている領域の研究で、おそらく人類で初めて、被験者が強くイメージした脳内映像を外部コンピュータに出力することに成功した事例です。左にあるイメージが被験者に提示されたイメージ、右
■なぜ知覚、エチカなのか 柳澤 ご紹介ありがとうございます。ただいま岡村さんにご説明いただいたように、「映像」というひとつのメディアを中心に、単発で終わらない継続的な議論を作っていく場として、この「ラウンドテーブル」という場を設けていただきました。そのことにまずはたいへん感謝しております。 昨年度に開催された第1回映像祭は「オルタナティヴ・ヴィジョンズ」というテーマでした。このテーマ自体が、アートという狭い枠のなかで映像を捉えるものではなく、それを含めた私たちの日常的な経験が、ある意味ではオルタナティヴな知覚(perception)の経験の形成を示していると解釈できると思います。そういった、人間の作る人工物全般について考えていけるような、非常に大きなパースペクティヴを持った映像祭として企画されていたわけです。 今回は第2回で、「歌をさがして」というテーマが掲げられています。先ほども私たち
■〈顔〉の崩壊 大橋 本日は多くの方に来ていただきありがとうございます。私は映像に関してはどちらかと言えば素人ですので、皆様を満足させるお話ができるか自信がありませんが、なんとなく見ていただき、では何が考えられるのか、ということを考えていければいいと思っています。「〈顔〉の崩壊」というテーマで進めていきます。参照するのは、 バズビー・バークリーが振りつけた演舞《Dance until the Dawn》(1931)のシーン[fig.10]、次にマルクス兄弟《我輩はカモである》(1933)のひとつのシーン[fig.11]を流しますのでご覧ください。 最初のバークリー《Dance until the Dawn》をご覧いただいてお気づきかと思いますが、人間の身体を幾何学的に構成するというよりは、特有のリズムを伴った複数の有機的なユニットとして組み合わせた振り付けが彼の特徴的な発想とされています
柳澤田実 / YANAGISAWA Tami 1973年生。南山大学人文学部准教授。哲学、生態学的観点からの人工物(アート、宗教)研究。編著書=『ディスポジション──配置としての世界』(現代企画室、2008)。論文=「宗教的経験と行為の動機付け──経験科学に基づく宗教研究の可能性」「キリスト教から読む大野一雄──魚釣りとしての人間」「地続きの思想──中井久夫、木村敏」など。 大橋完太郎 / OHASHI Kantaro 1973年生。東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)特任研究員、ブリュッセル自由大学哲学科自由研究員、および静岡文化芸術大学、玉川大学非常勤講師。専門は思想史、哲学、表象文化論。共著=『ディスポジション──配置としての世界』(現代企画室、2008)。論文=「盲者の感性論と唯物論的一元論──ディドロ『盲人書簡』読解」「自由の徒弟時代
■蜘蛛の立体映画 平倉 よろしくお願いします。タイトルは「蜘蛛のスクリーン」です。前回、柳澤さんと大橋さんから「視覚の触覚性」という問題が提起されました。それを受けて前回私は、映像とは、プラトンの洞窟の比喩に示されるような、「私が見ているものが私が見ているものだ」という知覚のトートロジカルな閉鎖性のことではないか、という問題を提起してみました。今回の私の発表はこの問題を、蜘蛛の知覚を通して考えてみたいと思います。周知の通り、蜘蛛は振動によって、つまり触覚的に知覚を行なうからです。まず、蜘蛛の触覚に入る前に、蜘蛛の網の視覚的な現われから始めましょう。 最近ハリウッドの「立体映画」が注目を集めていますが、セルゲイ・M・エイゼンシュテインは、1947年に「立体映画について」というテクストを執筆しています。その冒頭近くで、2種類の動物が、立体映画の効果を説明するために登場します。引用します。 「
■「映画」か「映像」か──意識と無意識 宇川直宏 こんにちは。みなさん第1回「恵比寿映像祭」にようこそいらっしゃいました。本日は松本俊夫先生と僕とで、「映画」祭ではなくなぜ「映像」祭なのかということを手始めに、映像について考えていきたいと思います。先生は1960年代初頭に『映像の発見──アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963)という本を出されていますが、その当時「映像」という概念はいったいどのような位置づけがなされていたのでしょうか? 松本 「映像」という言葉は戦前に寺田寅彦などが使っていますが、現在の意味で使われだしたのは50年代の後半で、何人かが同時代的に使い始めました。僕がこの本を書き始めたのは58年です。「映像」はぴったり対応する外国語がない不思議な言葉で、「イマージュ・フォトグラフィック」や、「イマージュ・シネマトグラフィック」といったように限定した言い回
秩序とノイズ、技術と表現の弁証法 アートとしての映像の顕著な変化は、古典的な美術、音楽、パフォーマンスといったジャンルの自律性を揺さぶるものとして機能していることにも現われています。ジャンルの境界がボーダーレス化することでお互いに融合し、今までなかったような表現が生まれてくる。そのような状態が次々と表出しているのが現状ではないかと思います。 一方、この多様な展開が表現の価値をフラットにしているとも考えられます。デジタル技術でつくられた社会は、均質化の社会です。ですから、このなかでいくら多様化しようとも表現のヴァリアントは均質的に飽和するだけなのかもしれません。このフラットな状況で、アナログの持っていた面白さがかえって目立つということすら起きている。 デジタル技術の視点は、ニュアンスの連続のなかに生じる非常にデリケートなノイズを、0と1のすっきりした組み合わせにするために切り落とし
皆様、このたびは恵比寿映像祭に関心を お寄せくださいまして、誠にありがとうございます。 恵比寿映像祭の事務局では、2009年2月20日開催の 第一回オープニングに向けて、鋭意邁進しております。 さて、恵比寿映像祭では、 まずこの映像祭のコンセプトを きちんと立てていこうということで、 その象徴であるロゴ作りを大切な要素と捉え、制作を致しました。 このブログコーナー立ち上げにあたって、まずはロゴの成り立ちに ついてご説明をさせて頂ければと思います。 — 今後継続的に実施していく映像祭のシンボル・ロゴを 作るにあたり、もともと「映像」自体には実体がないうえに、 実際の展示や上映内容のラインナップも 不確定な段階であったことが、大きな課題でした。 議論を重ねるなかで、あえて求心的なアイコンを 真中にすえるかわりに、それをくくるフレームとしての カッコをロゴにしてしまう、
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