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ブックレビュー
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東京に滞在していた数年前、深夜に地下鉄大江戸線のプラットフォームで地図を見ていたら、少しお酒の入った若いカップルが近寄ってきて道順を教えてくれた。そして、その後色々と質問をしてきた。「日本で何をしているの?」-「学生です」、「何を勉強しているの?」-「日本文学です」、「どんなジャンル?」-「現代詩です」。一瞬の沈黙の後、女性の方が突然大声で私にこう言った。「すごい退屈!あなた退屈な人ね!」 それでもなお私はこのテーマの研究を続けている。国際交流基金の日本研究フェローシップのおかげで昨年は東京に滞在し、博士論文「20世紀日本におけるメディアを横断する詩」の資料を収集することができた。地下鉄の女性の発言は単刀直入だったが、決して稀な考え方ではない。詩全般、特に現代詩は、他の芸術表現と比較して重要でない、影が薄い、退屈であるといった評判である。学術界でも例外ではない。詩は、小説、短編小説、視覚芸
わたしの父親は、日曜日の「将棋番組」を欠かさず見るような将棋好きでした。 この父の影響でいつのまにかわたしは将棋を好きになっていたのです。 子供の頃、父と将棋をするときは、もちろん駒落ち。 飛車を落とせば「飛車落ち」、飛車と角を落とせば「二枚落ち」 わたしはこの二枚落ちでよく父と将棋をしました。 大人になってからも、私の将棋好きは変わりません。 多少、将棋の本を読んで強くなったといい気になり 実家へ帰れば、必ず父と将棋を指しました。 しかしまったく勝てません。 父は病院で死んだのですが 死ぬ少し前、入院先の病室で、毎日毎日、父と将棋を指しました。 父の病気は治る見込みはなく、長くて一ヶ月 それは父以外、みんな知っていることでした。 病室は三階にありました。 エレベーターを降り、白い廊下を真っ直ぐ奥まで行くと 六人部屋の病室を入ってすぐのベッドに父は横になっていました。 わたしが行くと父はベ
夏は緑の葉っぱの子供と 花の咲く子をつれて海へ行った 二人にははじめての小さな島の海 ぼくが子供のときに泳いだ海だ (おとうさんおおきな波がきたらたすけてね) (わたしのこともたすけてね) もちろんたすけてあげるから安心して 遊びなさい 水中メガネで 水の中を見てごらん 海は無定形と無秩序の状態であり 神々と人間が力をつくして守らなければ 文明はいつでもそこへ逆行するとオーデンは言ったけれど いまは無秩序と無定形の混沌に触れることが必要なときだ 風と波浪に癒されなければ 子供のときの海に全身で浸らなければーー ほらたくさんいるのがニシキベラ 他の名前は知らないけれど ぼくが子供のときにもああして泳いでいた魚たちだ そのときにも 水の中はこんな風にほの暗かったし そのときにも 潜って行けばどこまででも潜って行けた いまももちろん遠くまで行けるさ (おとうさん青空はすっかり秋の色) (魚たちも
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