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宗教学に関するnebokegaoのブックマーク (15)

  • 【社説】地下鉄サリン20年、上祐氏の“文化人”化を許すな

    今日3月20日、あの地下鉄サリン事件から20年を迎えた。前年に起こった松サリン事件と合わせると死傷者は約7000人。いまだに後遺症に苦しむ人々も多い。子供がオウムに入信してしまった親たちは、一連のオウム事件への罪の意識を抱えながら、いまだ戻らぬ子供たちの身を案じ続けている。オウム真理教の後継組織のひとつ「アレフ」は、教祖・麻原彰晃への回帰を強めていると言われ、反省に乏しい実態が比較的見えやすい。しかしアレフばかりに目を奪われて、上祐氏が“文化人”化していく状況を見逃してはならない。上祐氏もまた、後継団体「ひかりの輪」を存続させ、親元にも社会にも戻らない信者たちとともに群れているのだ。 ■「被害者」をダシに自己正当化 ひかりの輪の上祐代表は、教団を率いる理由のひとつに、サリン被害者への賠償を挙げる。しかし賠償なら宗教団体でなくてもできる。宗教活動ではなく賠償を目的とした団体でもかまわないは

    【社説】地下鉄サリン20年、上祐氏の“文化人”化を許すな
  • 0620 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    キリスト教社会には中世このかた「コルプス・クリスチアヌム」が覆ってきた。「キリスト教的社会有機体」といった意味だ。各個人に先行し、社会にアプリオリに存在する全体性めいたものがあるという見方だ。キリスト教社会にいる者はこの有機的全体性を破れない。そういう意味ではキリスト教の理性はまさに全体主義なのだ。エルンスト・トレルチの指摘である。 中世以来のこの「コルプス・クリスチアヌム」はやがて教会と国家の分離によって切断される。それがキリスト教西欧社会における「近代化」である。近代社会はそれまでの神との契約とはべつに、国家や会社との契約を発進させた。これによって個々の人間像がキリストの体や教会の壁にくっついた「浮彫的人間」から、社会の囲いのなかに立ち往生する「立像的人間」へと転換されることになった。 結果的にこの転換は強行されたのではあるが、当然ながらそこには容易に埋めがたい溝や矛盾があった。説教詩

    0620 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2015/02/15
    「ピューリタニズムはたいへん妙な思想であり、運動である。つねに移住先を求めるし、どこかに定着したらしたで、移住者の再編成を課題にせざるをえなくなっていく。まったくノーマッドではない」
  • 中田考夫人の入信記【はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読後に発見】(長文)

    中田考夫人の入信記【はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読後に発見】(長文) http://www.asyura.com/0310/idletalk4/msg/113.html 投稿者 なるほど 日時 2003 年 9 月 24 日 21:31:28:dfhdU2/i2Qkk2 (回答先: エジプトでもてはやされる今風のイスラム [ル・モンド・ディプロマティーク] 投稿者 あっしら 日時 2003 年 9 月 24 日 19:50:26) はまちさん、はじめまして。なるほどです。 はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読みました。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: ビンラディンの論理 中田考著 が、参考になるかと思います。 http://www.as

    nebokegao
    nebokegao 2015/01/26
    中田考夫人の入信記【はまちさんお薦めの『ビンラディンの論理』読後に発見】(長文)
  • THE PAGE(ザ・ページ) | 気になるニュースをわかりやすく

    いつも「THE PAGE」をご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたウェブサイト(https://thepage.jp)は2018年10月1日をもってサービス終了しました。 THE PAGEの最新の記事は、Yahoo!ニュースの「THE PAGE」掲載ページでご覧いただけます。 ・Yahoo!ニュースの「THE PAGE」掲載ページ(https://headlines.yahoo.co.jp/list/?m=wordleaf) 今後も「THE PAGE」の記事をご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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  • 宗教や思想について再考するための30冊

    ・福田歓一『政治学史』東京大学出版会、1985年 宗教と政治来、社会統治を目的とした技術として、相互に不可分の関係を持つ。書は、丸山眞男と並ぶ日政治学の碩学による、ヨーロッパ政治思想の卓越した通史。概論的な著作である同著者の『近代の政治思想』(岩波新書)から入るのも良い。 ・笹倉秀夫『法思想史講義』(上下巻)東京大学出版会、2007年 福田歓一『政治学史』を継承・発展させた、ヨーロッパ法思想史の金字塔。マルクスやウェーバー、ポストモダニズムなど、近現代の諸思想に対する記述も、簡にして要を得ている。 ・ハナ・アーレント『全体主義の起原』(全三巻、新装版) みすず書房、1981年 群衆はどのような心理的・社会的メカニズムによって、ナチズムを支持するに至ったのか。政治思想史の古典の一書。邦訳では全三巻だが、最後の三巻のみを独立して読むこともできる。入門書として、仲正昌樹『今こそアーレン

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    nebokegao 2015/01/17
    大田俊寛氏による
  • アウグステウィヌス『告白』~世界の名著リバイバル!

    ホーム > 書評:アウグステウィヌス『告白』 この記事の最終更新日:2006年4月23日 (以下の書評は2005年10月に別サイトで発表済みの文章をもとに作成しています) 中央公論社「世界の名著14 アウグスティヌス」山田晶責任編集。昭和43年初版発行。アウグスティヌス著「告白」を収めている。以前古屋で買ったのだが、ほとんど読まないまま古屋に売り返していた。何故これを図書館で借りたかというと、時間論が気になったからである。 もとはといえば、トルストイの結婚についての考察のつながりで、アウグスティヌスの結婚観に行き当たった。結婚が唯一性欲を善にすると考えたアウグスティヌスは、過度の禁欲を避け、結婚を秘跡として神聖なものと尊ぶ教会神学の基礎を作った。 ここ最近トーマス・マン「魔の山」を読んでいたのだが、「魔の山」には時間についての考察がたくさん出てくる。そこでまた、時間論を書いているアウグ

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    nebokegao 2015/01/14
    「時間は精神の延長ではなく、分散/時間軸上に分散している自己が、神のために、ただ現在一つに集中することが彼の望みであり、神の望みでもあった」
  • 「墓が捨てられる」時代: 極東ブログ

    先週のクローズアップ現代「墓が捨てられる」(参照)が興味深かった。文字どおり、墓が捨てられていく現代日の状況を描いていた。墓が誰の所有かわからなくなれば、捨てるしかない。 目につくのは、捨てられる膨大な墓石である。番組冒頭では、淡路島に不法投棄された1500トンもの墓石の山が映し出された。 その投棄される墓石には合わせていなかったが、少なからぬ遺骨もまた捨てられているように思えた。 墓石自体は岩石なので砕けば道路工事用の砂利として再利用できる。その費用は1トン5000円から1万円ということで、コストの都合から淡路島に不当投機されたらしい。 映像を見ながら、行政で罰則規定と墓石再利用に補助金を付ければ、なんとかなるだろうなと私はぼんやり見ていた。しかし、ゴミ投棄やゴミの再利用のような話ではないなとも思っていた。墓そのものを維持することが難しくなった現代が背景にあり、そこに問題の根もある。

    「墓が捨てられる」時代: 極東ブログ
    nebokegao
    nebokegao 2014/10/15
    「遺骨信仰/墓石や遺骨というよりも、死者の名前という問題かもしれない」
  • ジョン・ヒック「自分史」(訳:堀江宗正)

  • 公開講座:南方熊楠の新次元 第四回「アクティビスト南方熊楠」レポート | 野生の科学研究所

    2014/05/15 公開講座:南方熊楠の新次元 第四回「アクティビスト南方熊楠」 南方熊楠の新次元第4回は、神社合祀反対運動を展開したアクティビストとしての南方熊楠に焦点が当てられました。江戸から明治にかけて歴史が大きく転換し、近代の波がおしよせてくる当時の状況の中で、海外に長く身を置いた熊楠が見る「日」とは、神社とは何なのか。熊楠が見つめたもの、守ろうとしたものはなんだったのか。中沢所長の講演、哲学者國分功一郎さんをお招きしての対談をレポートします。 「アクティビスト南方熊楠」 講演:中沢新一 明治33年(1900年)、熊楠は14年に及ぶ海外生活を終え帰国しました。那智や田辺の森で植物採集にいそしみ粘菌研究に没頭していた明治39年ころに、神社統廃合、いわゆる神社合祀(ごうし)が猛然と敢行されていく実情を目の当たりにし、奮然と抵抗運動を始めます。以来6年間の長きにわたり徹底的に闘い続け

    公開講座:南方熊楠の新次元 第四回「アクティビスト南方熊楠」レポート | 野生の科学研究所
  • オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった/大田俊寛 - SYNODOS

    一連のオウム事件の主犯が誰であったかについては、一時期、「麻原彰晃の独断」説と「弟子たちの暴走」説のあいだで論争が行われていました。 最近『文藝春秋』(2014年2月号)で公表された井上嘉浩氏の手記に見られるように、オウムにおいては、たとえ上層の幹部であっても、「麻原の意志に背けば殺される」ということが陰に陽にほのめかされていましたので、どちらかといえば前者の方が事実に近かったと思いますが、オウム問題を広い視野から捉えようとする場合、そのことは実は、さして重要ではありません。 事件のすべては麻原の独断によるものであり、また同時に、その「真相」のすべてを麻原が了解していたかといえば、とてもそうは考えられない。麻原の裁判は一審で打ち切られ、二審と三審が行われませんでした。言わば、「デュー・プロセス・オブ・ロー(法の適正手続)」が堅持されなかったわけで、そのことはやはり批判されなければなりません

    オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった/大田俊寛 - SYNODOS
    nebokegao
    nebokegao 2014/05/15
    「オウムの思想の根幹は「霊性進化論」/歴史を振り返ってみれば、思想の罪を問わないというのは、むしろ例外的な事態」
  • 日本人が満員電車を我慢できたわけ:日経ビジネスオンライン

    上田:明確に、ではありませんが、異常事態だ、ということにはかなり前から気づいています。従来の働き方が崩れ、リストラされる社員が多数出てきたり、残された社員の中からもになる人が増えていますから。なんとかしなければ、と考えている経営者は少なくないはずです。 池上:上田先生のところにも相談が? 上田:この前、会社の人事担当者が集まる会合で講演をしたときに、日社会は会社で金儲けの道しかない単線社会だ、宗教や個人の友人関係といった別の心のよりどころが存在しにくい、だから、会社社会がゆらぐと、個々の日人も揺らいでしまうんだ。と話したんです。すると、ある会社の人事担当者が言いました。 「うちでもになって会社に出てこられない社員がたくさんいます。そこで悩んでいることがあります。その社員をなんとかしようと、人事担当者が休んでいる社員を訪れてケアをしようとするんですが、まずいことに今度は人事担当者が

    日本人が満員電車を我慢できたわけ:日経ビジネスオンライン
    nebokegao
    nebokegao 2014/04/08
    「人事担当者が休んでいる社員を訪れてケアをしようとするが、鬱が伝染してしまう。鬱の社員を救うのは、会社の人ではありません/人生を複線化する、というのは、単線化した人生をひた走る人間から見るとムダ」
  • UT Repository: 利他主義・ボランティア・宗教 : イギリスにおけるチャリティ

    nebokegao
    nebokegao 2014/01/11
    自発性のパラドックス=自らの自由意志で進んでとった行動の結果として、その自分自身が苦しい傷つきやすい立場に置かれること/「偽善的だ」の声、無力感・焦燥感にたいする精神的サポートの重要性について
  • 西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」

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    西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
  • 民俗信仰深堀り『死者の救済史 供養と憑依の宗教学』

    📖 昔々の日において、「祖先崇拝」や「シャーマニズム」が衆生の暮らしを席巻したのは、日古来の土着文化の賜物と言うよりは、「外来の宗教や思想によって育てられた結果」ではないか。 そんな推理を、さあ温故知新! 死者の霊をおろすといった行為は、明治の初頭から第二次大戦が終わるまで、法令上は禁止されていた。しかし、現実にはほとんど黙認の状態で、警察当局も、禁止すればかえって危険、という認識をもっていたようだ。 「祟り(たたり)」とは、一言でいえば「祀り(まつり)」を要求する意思の表明である。古代の日の「神」を単純な言葉で概括することはできないが、その中心に、人々に祀りを要求する祟る霊威という性格がそなわっていたことはまちがいない。 相手の力を脅威と感じるかぎりは祟(たた)る神として祀り上げるが、その脅威が消えたと判断されれば、祟りの主体は穢(けが)れた賊として排除されてしまう。 強大な祟り

    民俗信仰深堀り『死者の救済史 供養と憑依の宗教学』
  • 次のAmazonレビューを確認してください: 前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書 987)

    宗教の構成要素とされるものは脇平也『宗教学入門』(1997,講談社学術文庫)によれば、教義・儀礼・教団・体験の四つに大きく大別されます。とはいえ、たとえば神道など教義が存在しない宗教も存在するため、必ずしもこれがなければ宗教とは呼べないというものではないですが、AKBにおいて、存在するものの、濱野さんが語っていない部分、つまり『前キリ』を宗教学のテキストとして読んだときに大きく欠けているのが教団(ファンコミュニティ)への言及だと思います。そしてこのは体験の記述が多い点から宗教学ではなく、神学によっているテキストとも言えます。 いったん宗教学のほうの話をすると『宗教学入門』で、宗教の機能とされているものは「補償」と呼ばれるものであります。一言で言えば、コンフリクトの解消を担うものです。なんらかのコンフリクトを抱えた人間がその解消を求めて、参拝などの宗教行動(受験の合格祈願をしに行くなど)

    nebokegao
    nebokegao 2013/02/08
    「この本は体験の記述が多い点から宗教学ではなく、神学によっているテキストとも言えます - 宗教社会学専攻院生からみる『前キリ』」
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