デリダ『グラマトロジーについて』の英訳を手がけたスピヴァクが長大な「序文」で示したのは、「抹消の下へ置く」身振りへの並々ならぬ関心だった。それは彼女には、デリダの脱構築思想と他の現代思想を分ける大きな境界線に見えたのである。では、その関心はどのような形でスピヴァクの哲学に表れているのか。そのことを我々に教えてくれるのが、評論集『文化としての他者』(1987)である。先のデリダ論で実質的なデビューを飾った1976年から、11年が経とうとしていた(イェーツに関する博士論文を提出した1974年から数えれば、13年もの歳月になる)。 スピヴァク『文化としての他者』に収められた論考が一貫して主張するのは、言葉(文字=手紙)が常に暴力性と偏向性を孕んでいること、言わばある種の「刃」だということである。どんな言葉も他人を傷つける可能性を秘めているし、歴史的・地理的な制約を逃れることはできない。この主張は