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ブックマーク / 1000ya.isis.ne.jp (55)

  • 1108 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    市場対国家 ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー 日経済新聞社 1998 Daniel Yergin [訳]山岡洋一 1990年代を日の「失われた10年」というらしい。そのわりに何が失われたのか、まったくはっきりしていない。答えを出した者もいない。そのあいだに小泉純一郎政権が強化され、「なんでも民」になり、地域格差が埋めがたくなり、六木ヒルズが建設されてそこに三木谷浩史や堀江貴文が入ることになったというほうが、わかりやすい。21世紀日の最初の5年間は「失われた10年」が鳴り物入りで用意した民間金融主義に席巻されているだけなのである。 書はべつだん日の低迷の打開のためや株主自由主義に歯止めをかけるために書かれたものではないが(そんなお節介はしていないが)、読みようによっては多少のヒントが見えてくる。それがどういうものかはあとでのべるとして、邦題が『市場対国家』という今日の根

    1108 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
  • 0254 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    かなり変わったタイトルだ。わかりにくいといえば、わかりにくい。仮に意味の見当がついたとして、アメリカに「無意識の意思」なんて言葉があてはまるのか、訝る読者も多かったろう。 著者が言いたいことは、こうである。勝手に要約する。 アメリカの経済が強大だからといって、資主義の中心がアメリカにあると思わないほうがいい。歴史的にみると、アメリカが心底で自由主義市場を辛抱しているかどうかは疑わしい。たとえば大恐慌のあとの超保護関税法であるスムート・ホーレイ法をとっても、アメリカ来はモンロー主義の国なのだ。 これをいいかえれば、アメリカは骨の髄からアウタルキーの国なのである。自立経済型なのだ。それを自由市場に与したのは、イギリスが経済破綻から自由主義を放棄してカナダをアメリカから切り離し、帝国特恵関税システムの中にくみこんだときからである。けれどもそこへ、遅れたイギリスがまたまた市場経済に入ってきた

    0254 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2015/02/15
    「アメリカの経済が強大だからといって、資本主義の中心がアメリカにあると思わないほうがいい/経営の超合理主義信仰は古臭い/未来に賭けようとする「忘却の国家」」
  • 0620 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    キリスト教社会には中世このかた「コルプス・クリスチアヌム」が覆ってきた。「キリスト教的社会有機体」といった意味だ。各個人に先行し、社会にアプリオリに存在する全体性めいたものがあるという見方だ。キリスト教社会にいる者はこの有機的全体性を破れない。そういう意味ではキリスト教の理性はまさに全体主義なのだ。エルンスト・トレルチの指摘である。 中世以来のこの「コルプス・クリスチアヌム」はやがて教会と国家の分離によって切断される。それがキリスト教西欧社会における「近代化」である。近代社会はそれまでの神との契約とはべつに、国家や会社との契約を発進させた。これによって個々の人間像がキリストの体や教会の壁にくっついた「浮彫的人間」から、社会の囲いのなかに立ち往生する「立像的人間」へと転換されることになった。 結果的にこの転換は強行されたのではあるが、当然ながらそこには容易に埋めがたい溝や矛盾があった。説教詩

    0620 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2015/02/15
    「ピューリタニズムはたいへん妙な思想であり、運動である。つねに移住先を求めるし、どこかに定着したらしたで、移住者の再編成を課題にせざるをえなくなっていく。まったくノーマッドではない」
  • 0979 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    これは「カイエ・ソバージュ」と名付けられた中央大学などでの講義録の最終回にあたっているらしい。5冊目である。カイエ・ソバージュはきっと「とはずがたり」という意味だろう。 1冊目が『人類最古の哲学』で、『熊から王へ』『愛と経済のロゴス』『神の発明』と連打されて、そして書というふうに続く。あいかわらず表題編集賞を贈呈したいくらいに、タイトルはフォトジェニックだ。つい読まされる。このシリーズも刊行されるたびにざっと読んできたが、講義録というより、講義記録をおおざっぱな下敷きにして、ですます調で自在に枝葉をのばし、そこにあらためて強い輪郭線を引き直しつつ、それをもういっぺん流れを整えて仕上げたという印象だ。書物というもの、それでいい。 そもそも中沢新一は、多様な知識を組み合わせた思想の流れをナラティブに仕立てられるという才能の持ち主で、海外にはよくいるけれど、最近の日には少ない“思想作家”のタ

    0979 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/08/02
    「「本来の対称軸の回復」…おそらくデモクラティックな考え方もこういう見方をとる。けれども、ぼくが見る対称性は、たえず動くものなのだ/かつての「ある」を、次の「なる」に変えていく」
  • 87夜『日本の歴史をよみなおす』網野善彦|松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    87夜『日本の歴史をよみなおす』網野善彦|松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/05/15
    「網野善彦が有名にした「無縁」「楽」というしくみ。縁を断つところ、…無縁をおこせるところ、あるいは別の関係に入れるところ、それが市場(市庭)の隠れた機能であった」
  • 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/04/19
    「スーパーキャピタリズム:経済権力の主体が投資家と消費者に移っていくことによって、一国の経済社会の「影の部分」が肥大化/企業のコンプライアンスなど、むしろ企業の社会的責任力を低下するものだ」
  • 1140 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    猿と女とサイボーグ ダナ・ハラウェイ 青土社 2000 Donna J. Haraway Simians, Cyborgs, and Women 1991 [訳]高橋さきの コンパニオン・スピーシーズ(companion species)。ダナ・ハラウェイのとっておきの造語だ。「人とイヌとはコンパニオン・スピーシーズだ」というふうに使われる。「伴侶種」と訳されているが、日で伴侶というと夫婦のような関係をさすことが多いので、あえて訳せば「同僚種」とか種をこえた「番(つがい)の創成」などと理解したほうがいいかもしれない。 ハラウェイがコンパニオン・スピーシーズというコンセプトを持ち出すのは、もちろん無類の犬好きであるからで(カイエンヌが有名だ)、コンラート・ローレンツがそうであったように、ほとんど人と犬とを区別しないほどに暮らしてきた実感と自信があるからだった。ラテン語のコンパーニオーは、も

    1140 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/03/09
    「動物とも機械とも交わっているナマのサイボーグであって、いつだってどんな部分を強調することも、どんな矛盾を抱えることも、どんなにバルネラブルになることも恐れないサイボーグなのである」
  • 0796 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    七平をどのように評価するかという作業が黙過されている。これはよくない。 山七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で『日人とユダヤ人』を世に問うて以来、一貫して問題作を書きつづけてきた。その論旨には山七平学ともいうべきものがあったにもかかわらず、ほとんど軽視されている。在野の研究者だからといって、これはよくない。論旨の内容の検討を含めて議論されるべきだ。 ぼくは二度ばかり山さんと会って、これは話しにくい相手だと感じた。屈折しているのではないだろうが、世間や世情というものをほとんど信用していない。そのくせ、山七平の主題は日社会のなかで世間や世情がどのように用意され、どのように形成されてきたのかということなのである。 こういうところが山七平を議論させにくくさせているのかもしれないが、だからといって放っておかないほうがよい。丸山真男・橋川文三・松健一とともに、そのホリゾントの中で評価さ

    0796 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/03/03
    「日本こそが真の中国/天皇=中国人説/「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきた」
  • 0908 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    パサージュ論 ヴァルター・ベンヤミン 岩波書店 1993 Walter Benjamin Das Passagen-Werk 1982 [訳]今村仁司・三島憲一 他 これはベンヤミンの千夜千路あるいは千夜千境である。また、ベンヤミンの書物売り立て目録である。だいたいは一九二七年から一九三五年までノート風に書かれた。最晩年のノートになる。ただし厖大なノートだ。そのあいだに、ベンヤミンはナチスから逃れてパリに移住したりしていた。 パサージュ(passage)とは、十八世紀からパリの中心街付近に登場した回廊型のアーケードのことで、パレ・ロワイヤルやパサージュ・フェイドーが先行して、ナポレオン時代から復活王政時代にかけてまたたくまにふえた。歩道整備がままならないなか、フランス革命によって解放された敷地と建物のパサージュ(小道)に次々に小さな店が開店して軒を並べ、パリの住民や旅行客の夢を誘ったのであ

    0908 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
  • 0773 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    悪の華 シャルル・ボードレール 新潮文庫 1953 Charles Baudelaire Lea Fleurs du Mal 1857 [訳]堀口大学 ランボオが“désorienter”(途方にくれる)であるとすれば、ボードレールは“déréalisation”(現実感の喪失)だった。ランボオが“informe”(不安定)であるのなら、ボードレールはその逆の“centralisatiom”(集中的)だった。 ランボオは一八七一年のドメニイ宛の書簡で、数々の詩人の名をあげたうえで、ボードレールこそが「第一の見者」であって、「詩人たちの王者」「真の神」と誉めそやしたけれど、その資質は逆を向いていた。ランボオは「見者」であろうとしたが、ボードレールは「覗く人」だった。ランボオは熱いが、ボードレールは苦いのだ。 ボードレールの「苦み」は暗示と隠喩でしか伝わらない。ナマの素材をそのままべたいとい

    0773 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
  • 0955 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    ぼくが迷いこんだままになっている問題をみごとにブレークスルーしている思想者もいれば、逆に、ぼくの思索や表現が初めてブレークスルーをしたと思えることもある。 書は前者の典型的な例で、ほぼ一から十まで頷かせた。とくに思想における方法的意志の強調については、まったく申し分ない。扱った話題が広いのではない。おおいに絞られているのに、懐ろの多岐な含みが深くて(その先は広くて)、まるで達人が即興で巻いたのにそのまま歴史に残った連歌集を紐解くように、出来上がっていた。のちに柄谷自身はこの論考には不満があると述べていたが、大筋はいまでも有効だ。 表題の『日精神分析』は、日の「精神分析」とも、「日精神」の分析とも、読める。実際にも著者はそのような両義を孕んでこの表題をつけた。 ということで、今夜は書の前半の内容をできるだけコンデンスして届けたい。 著者が編集主幹をしている「批評空間」2002年第3

    0955 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/01/30
    「外部のものをどんどん受け入れながら、それを外のものと見なす方法は、漢字の音訓併用や漢字仮名併用によってこそ可能になったと見た」
  • 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/01/19
    「人々は相対的価値観のゆらぎのなかにいて、合理的な判断に向かおうとしていながらも、自分が最初に価値をアンカーリングしたことに引きずられて不合理な意思決定をしているということ」
  • 1379 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    自由地と自由貨幣による自然的経済秩序 シルビオ・ゲゼル ぱる出版 2007 Silvio Gesell Die natürliche Wirtschaftstordnung durch Freiland und Freigeld 1920 [訳]相田慎一 装幀:工藤強勝・渡辺和音 ゲゼルの大著は、いまほとんど読まれていない。 そのラディカルきわまりない思想の系譜も、 ほとんど辿られていない。 実はそこにはプルードンが先行し、 マルクスとケインズがあいだに入り、 シュタイナーが後行していた。 しかし誰も、こんな奇妙な系譜を 気で議論してはこなかった。 いったい何をどのように捉えたらいいのだろうか。 今夜は大著『自然的経済秩序』をめぐりながらも、 まずはその周辺のアプローチの方法をさぐる。 花 このところ「千夜千冊」は貨幣やマネーですね。 松 うん、暑いのにね。ぼくが一番苦手な分野です。沖縄

    1379 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/01/18
    「マルクスは資本主義の本質が「産業資本主義」、ゲゼルは「利子経済」にあると見た。矛盾がおこるのは生産過程ではなく、むしろ流通過程であって、搾取がおこるとしたら貨幣所有者と商品生産者のあいだと」
  • 1378 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、 利子が利子を生まない貨幣だった。 そういう貨幣が使える新たな社会だった。 エイジング・マネー。 時間の経過とともに変化する貨幣。 自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。 この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。 ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。 エンデはかれらの著作から 新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。 かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。 こののもとになった番組をぼくは見ていない。1999年5月4日の放送だったようだが、見逃したのではなく、知らなかった。このによってそういう番組があったことを初めて知った。これを読むかぎり、けっこう充実した番組になっていただろうと予想する。 河邑厚徳といえばNHKの教養番組ドキュメンタリー派の鬼才で、「がん宣告」「シルクロード」「アインシュタイン・ロマン」「チベットの死者の書

    1378 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2014/01/18
    「シルビオ・ゲゼル「お金は老化しなければならない」/お金で買ったモノは消費され、お金はなくならない。モノとしてのお金と消費物価とのあいだで不当競争がおこなわれている」
  • 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2013/12/27
    「リスクを少なくしようとする試みは、それ自体がリスキーなのである。現代におけるリスクのパラドックスは、「安全が危険の函数になっている」ということにある」
  • 1346 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    書でリスクの正体が 証されているのではない。 リスクについての新しい見方を 感覚的に提供している。 No Risk,No Life! ヒントは柔軟性、視点の変化、予測市場、 そしてリアルオプションにある。 No Risk,No Life! 果報は練って待て、 さわれる神から祟りを貰え。 ブログが書籍になった例がだんだんふえている。池田信夫のようなベテランカリスマ・ブロガーもいる。書もそうしたひとつで、ベテランではないが、2004年から2年間ほどのブログをもとにして構成執筆した。 著者は適当に投資を愉しんでいるらしい大学の若手センセーだ。リアルオプションを専門にしている。リアルオプションは企業や経営者が投資計画をたて、意思決定をするときの柔軟な分析理論をいう。 ブログは当たり外れが激しいが(どんなもそうだけれど、ブログだからおもしろいなんてことはほとんどない)、書にはときおり痛快

    1346 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2013/12/26
    「意思決定に関する柔軟性がリアルオプション/リアルオプションを確保するには、ひとつには偶発性を充実させておくための「場」、もうひとつにはその持ち主や才能性をどこかで提示しておく必要がある」
  • 1062 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    男と女について。「美しいのは男で、色っぽいのが女だ」というのがそのころの松浦理英子の持論だった。美しさというのは「線の鋭さ、堅さ、緊張感」がほとんど奇跡的に現世での「超越=永遠」を感じさせるようなものを、色っぽさは「線の優しさ、柔らかさ、甘さ」から生じていて、不安定で可動的な「はかなさ=危うさ」に達しているものをいう。1983年の25歳のときの文章。 犬について。松浦理英子は「自分で仔犬が産めないのが残念なくらい」に、犬が好きだと告白していた。たとえデート中でも犬を見かければ近寄ってしまう。昭和33年、戌年生まれ。一番好きな犬をめぐる作品はフリッパ・ピアスの『まぼろしの小さな犬』。 中学生について。保健の性の話を聞いたときの感想。「だいたいメンスのある女と射精のできる男が、なぜまた餌を待ち受けて嘴を開いた雛鳥のように知識をあてがわれるのを待っていなければならないのか。馬鹿にした話だ」。そう

    1062 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2013/12/24
    「松浦は『ナチュラル・ウーマン』においても『親指Pの修業時代』においても、つねに非性器的であり、非男根的なのである」
  • 0433夜 『ペニスの文化史』 マルク・ボナール&ミシェル・シューマン − 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    0433夜 『ペニスの文化史』 マルク・ボナール&ミシェル・シューマン − 松岡正剛の千夜千冊
  • 0875 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    さっき、そうか人にどのをとりあげたらいいか尋ねてからにすればよかったと悔やみつつ、一冊で10年ぶんの上野千鶴子高速遍歴が読める『差異の政治学』(岩波書店)にしようかと迷った。これなら「失われた日の十年」を越えた加筆もあるので、紹介するにふさわしい。 が、これはやや堅すぎるし、ぼくの紹介では妙味がつかないと気づき、ここはもっと煽情的に、たとえば『スカートの下の劇場』(河出書房新社)のほうがいいか、いやいや、きっとあまり知られていないだろう京大俳句会時代の句集『黄金郷』(深夜叢書社)が意外だからいいかとも思ったのだが(この「あとがき」は秀逸だ)、これはフェアプレーじゃないと諦めた。そこでうんと原点回帰して、想い出すだに懐かしい『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパ・サイエンス)をぼく自身が久しぶりに読み返す機会にもなるのでそうしようかと、まあこんなふうに右往左往したすえに、書『女は世界を

    0875 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    nebokegao
    nebokegao 2013/12/23
    「ともかくも上野千鶴子は、文意の構造が論理的でいて、また論理官能的/《フェミニズムはもはや「女の思想」であることを超えている。》」
  • 1127 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    性的差異のエチカ リュス・イリガライ 産業図書 1986 Luce Irigaray Éthique de la Différence Sexuelle 1984 [訳]浜名優美 フェミニズムがこんなにも多様で、こんなにもラディカルで、こんなにも痛快なものになるとは、70年代には予想できなかった。痛快というのは、たとえば男根哲学をフィロソフィならぬ「ファロソフィ」と名付けたり、アナログを肛門(アナル)とひっかけて肛門主義者(アナロジスト)と言ったりするウィットも含んでいる。ぼくはこういうセンスが好きなのだ。 1973年のことだったか、日の最初のウーマンリブの活動に18歳ほどで身を投じていた木村久美子が桑沢デザイン研究所をやめて工作舎にやってきた。言葉の端々にリブ、リブという響きが入る。マッチョな男主義のつまらなさを早くも実感しているようでもあったし、理論的戦闘性に憧れてもいるようだったが

    1127 夜 | 松岡正剛の千夜千冊