掘立柱を立てるための穴=京都府向日市 平安京遷都(794年)までの10年間都が置かれた長岡京の中枢、長岡宮跡(京都府向日市)で、桓武天皇が政務を執ったとされる大極殿跡の西側から回廊跡の遺構が見つかったと17日、向日市埋蔵文化財センターが発表した。 大極殿の西350メートルの地中から、掘立(ほったて)柱を立てるための穴21基(深さ1.4〜1.6メートル)や、石で作られた溝が出てきた。穴に立てられた柱の間隔は2.4メートルか3メートルと規則的だったと推定され、柱は3列に配置される「複廊」と呼ばれる回廊跡とみられる。 「続日本紀」によると、桓武天皇は789年、第1次内裏と呼ばれる「西宮」から、第2次内裏の「東宮」に移った。これまでの調査で西宮の場所は判明していなかったが、掘立柱の複廊は内裏など重要な施設に用いられることなどから、同センターは「第1次内裏(西宮)の一部である可能性もある」とい
考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。 長岡宮後期内裏(東宮)南東脇殿跡から甲の小礼発見!! 長岡宮内裏脇殿から大量の小礼が発見されたことを伝える2010年2月19日朝日新聞朝刊の紙面 2010年2月19日の関西地方の新聞各紙は、オリンピック中であるにもかかわらず、1面紙面中央にカラーで大々的に長岡宮内裏脇殿跡から確認された甲の部品の一つである小札を「天皇御物発見!」として伝えた。 昨年年6~8月に内裏内郭南東部で実施された発掘調査ではそれまでの仮説を覆す東西棟の脇殿発見のニュースが伝えられ私も早速現地を確認に行ったことがある。今回はその遺跡の資料を整理中に錆びた鉄製品をX線にかけると小さな穴が空いており、小札であると判明したというのである。小札自体はさほど珍しいものではなく、それなりの古墳を調査すると出土する
京都府向日市の長岡宮跡(784〜794年)で天皇が居住した内裏跡から、6世紀末〜8世紀末に作られたとみられる甲冑(かっちゅう)の部品「小札(こざね)」約30点が見つかり、同市埋蔵文化財センターが18日、発表した。皇族の墓とされる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の副葬品や、正倉院宝物と同型のものもあり、皇族にかかわる甲冑の一部とみられる。同センターは、歴代の甲冑が約200年にわたって伝えられ、内裏で保管されていた可能性があるとしている。 小札は短冊形の薄い鉄板で、小さな穴を開けてひもで1000枚前後をつなぎ合わせ、胴などを守る甲冑の部品。内裏の中にある脇殿の基壇の穴からまとまって見つかった。平安京に遷都する直前に意図的に埋められたらしい。 十数点分の甲冑の部品で、最小1センチ四方、最大で長さ9センチ、幅2センチ。厚さはいずれも2ミリ以内。大きさなどから〈1〉6世紀末〜7世紀後半〈2〉8世紀前半〈3
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