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2009年3月12日のブックマーク (6件)

  • asahi.com(朝日新聞社):円山応挙の描いた雪中松鹿図 東本願寺で見つかる - 文化

    新たに確認された円山応挙の衝立「雪中松鹿図」=10日午後、京都市下京区の東願寺円山応挙の衝立の裏面に描かれた長沢蘆雪の「渓流香魚図」=10日午後、京都市下京区の東願寺、上田潤撮影  真宗大谷派(山・東願寺、京都市)は10日、江戸時代中期の代表的な画家円山応挙(1733〜95)が描いた衝立(ついたて)が見つかったと発表した。雪が積もった山中の松と鹿のつがいを繊細な筆致で描いた「雪中松鹿図(せっちゅうしょうろくず)」で、落款の書体から応挙の40代後半の作品と推定される。  衝立は高さ155.5センチ、幅132.5センチ。裏側の「渓流香魚図(けいりゅうこうぎょず)」には落款がなく、絵の特徴から応挙の高弟・長沢芦雪(1754〜99)の作品である可能性が高いという。渓流をさかのぼるアユやフジの花が描かれている。  東願寺境内の倉庫で97年ごろに見つかり、11年の宗祖・親鸞聖人750回御遠忌

    shig-i
    shig-i 2009/03/12
    「東本願寺境内の倉庫で97年ごろに見つかり」
  • asahi.com(朝日新聞社):中央郵便局「重文超える価値」 建築学会見解 - 社会

    東京と大阪の両中央郵便局について、日建築学会(斎藤公男会長)は11日、「国指定の重要文化財の水準をはるかに超える価値がある」との見解を発表した。日郵政と鳩山総務相が建物の一部を保存して登録有形文化財への登録をめざす方針を決めたことを受けたもので、建築的価値は外観だけでなく「建物全体にある」としている。

    shig-i
    shig-i 2009/03/12
    「建築的価値は外観だけでなく「建物全体にある」としている」
  • ああ、昔にもどりたい カストロ元議長「あそこでバントとかどう見ても失敗。原は何考えてる。中島は疑いようのないイイ選手」

    [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 1 名前: すずめちゃん(catv?)[] 投稿日:2009/03/11(水) 17:18:35.31 ID:hL2ym75e 私は国営放送のWBC中継をつぶさに追い続けている。 今朝はキューバの2大ライバルである日韓国の 試合が中継されていて、結果は韓国が1-0で勝利。 日はチャンスが2度しかなかった。 とても危険な選手で、また日の象徴ともいえるイチローだが、 この日は3打席凡退の後にヒットを打った。すると日の監督 (原辰徳) は 2番打者 (中島裕之)――彼は疑いようのないほど素晴らしい選手だ――にバントを命じる。 これでアウトカウントは2に増えた。我が国のファンは野球をよく知っている。 彼らならここでバントを命じた作戦はどう考えても失敗だったと思うだろう。 日

  • 47NEWS(よんななニュース)

    もう我慢しなくていい 情報を力に自分で未来を「取りに行く」 RIKACOさんから、全ての女性たちへ<br />

    47NEWS(よんななニュース)
  • 壺屋の登り窯、全壊 雨影響か、地元「残念」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

    社会 壺屋の登り窯、全壊 雨影響か、地元「残念」2009年3月12日 老朽化や雨などの影響で全壊した東ヌ窯=11日、那覇市壺屋 2002年に国指定重要文化財になった東ヌ窯 那覇市壺屋の国指定重要文化財「新垣家住宅」の敷地内にある登り窯「東ヌ窯(あがりぬかま)」が老朽化や雨などの影響で全壊したことが11日、明らかになった。同家に住む所有者の男性が8日夜、崩壊を発見。その後、那覇市教育委員会の担当者が状況を確認し、県や文化庁に報告した。戦前から多くの陶工が使用し、優れた焼き物を生み出した「壺屋のシンボル」ともいえる窯の崩壊に、近隣の関係者らは「非常に残念」「一刻も早く元通りにしてほしい」と訴えた。 12日に文化庁や文化財建造物保存技術協会の担当者が現地を訪れ、修復方法などを検討する。同教育委員会の古塚達朗文化財課長は「文化庁の指導の下、復元方法などを検討するが、市としても早急に取り組みたい

    shig-i
    shig-i 2009/03/12
    「那覇市壺屋の国指定重要文化財「新垣家住宅」の敷地内にある登り窯「東ヌ窯(あがりぬかま)」が老朽化や雨などの影響で全壊したことが11日、明らかになった」
  • 造山古墳(岡山)の周辺部発掘調査 葺石が多数出土 - 山陽新聞ニュース

    全国第4位の巨大前方後円墳・造山古墳(国史跡、岡山市新庄下)の周辺部発掘調査で10日までに、墳丘から撤去されたとみられる多数の葺石(ふきいし)が出土した。同古墳は1582年、織田勢の備中高松城水攻めの際、毛利方の援軍が出城を築いたと伝わっており、調査を進める岡山大の新納(にいろ)泉教授(考古学)らのチームは、城の構築時に捨てた可能性があるとみている。 葺石は墳丘斜面に敷き詰められた石で、後円部北側の調査区で見つかった。現在の地表から約1メートル下、中世に堆積(たいせき)したとみられる地層の上面で、東西3・4メートル、南北3・7メートルの範囲に集中。大きさは約30センチ角から、こぶし大までさまざま。葺石とともに埴輪(はにわ)片、室町時代の土器片約40点が出土している。 岡山県史などによると、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利方の武将・清水宗治の守る備中高松城を攻略。短期間で堤防を築き城を水

    shig-i
    shig-i 2009/03/12
    「古墳は1582年、織田勢の備中高松城水攻めの際、毛利方の援軍が出城を築いたと伝わっており、調査を進める岡山大の新納(にいろ)泉教授(考古学)らのチームは、城の構築時に捨てた可能性があるとみている」