新たに確認された硯の破片(左)。1例目の破片(右)より裏面がでこぼこしている=福岡県糸島市の糸島市役所で2016年9月28日午後4時15分、尾垣和幸撮影 福岡県糸島市教委は28日、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した同市の三雲・井原遺跡で、新たに別の硯の破片が発見されたと発表した。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の中枢遺跡で、外交文書のやり取りをしていたとする記述がある。1例目の硯が発見されるまで国内での文字使用は3世紀ごろからとされていた。硯が複数発見されたことで、市教委は「伊都国で文書が作成されていた可能性がより強まった」とした。 破片は板石状で5.4センチ×3.9センチ、厚さ5ミリ。昨年12月に発見された硯と材質は同じだが、1ミリほど薄く、裏面の加工の仕方が違うことなどから、市教委は別の硯と判断した。ただし同時代の物とみられる。同じ遺跡から弥生時
頬に線で「矢羽根」が刻まれている両面埴輪の一方の顔=和歌山市岩橋の和歌山県立紀伊風土記の丘で、八重樫裕一撮影 約10年前、和歌山市の古墳から一つの頭に二つの顔がある「両面人物埴輪(はにわ)」が見つかった。全国初の埴輪で、その後も類例はないという。両面の顔に込められた意味とは何なのか。 阪和自動車道和歌山インターチェンジ(IC)に近い、国特別史跡・岩橋(いわせ)千塚古墳群内の大日山35号墳(6世紀前半)から出土。2005年度調査で頭部が見つかり、和歌山県教委が発表、06年12月2日の各紙朝刊をにぎわした。毎日新聞は鏡に一方を映して二つの顔を1枚に収めた写真を掲載した。 私事だが当時、和歌山支局のデスク。「妙なもんが出たなあ」と妙に記憶に残っている。その意味については専門家の見方もさまざまで、当然確定的ではなかった。「研究が進んで分かったことはないのだろうか」と期待しつつ、展示している県立紀伊
河野太郎行政改革担当相は30日、堺市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を視察した。その際、継体天皇陵を例に、「天皇陵と言われているものに間違いがあってはいけない」と述べ、歴史学や考古学の定説と異なる陵墓については、指定を改める必要があるとの考えを示した。 河野氏は観光資源として価値のある国の施設の開放を進めており、視察はその一環。宮内庁は太田茶臼山… この記事は有料記事です。 残り261文字(全文435文字)
フェイスブック投稿に、「行政の圧力」と非難投稿が相次ぐ 東京の府中市美術館で来月始まる戦後を代表する社会派画家、新海覚雄(かくお、1904〜68年)の展覧会を巡り、同館の男性学芸員が23日、上司から展示の見直しを指示されたとフェイスブックに投稿。ネット上に「行政による表現への圧力」などと非難する投稿が相次ぎ、波紋が広がった。須恵正之副館長は「公立美術館にふさわしい中立的な展示を要請した」と話している。 同展は「燃える東京・多摩 画家・新海覚雄の軌跡」の名称で、来月16日から9月11日まで開催。同市平和都市宣言30周年記念事業の位置づけで、昨年から学芸員らが準備を進めてきた。
戦国時代まで現在の奈良市南京終(きょうばて)町にあった寺院「福寺(ふくでら)」の遺物とみられる瓦9点が、元興寺文化財研究所(同市)の調査で見つかった。様式から5点は奈良時代後半(8世紀後半)の古代瓦と考えられ、同研究所は「奈良時代の僧、行基が創建したとする寺伝を年代的に裏付ける発見」としている。【皆木成実】 福寺は興福寺の塔頭(たっちゅう)寺院だった大乗院の末寺。室町時代に書かれた大乗院の記録に初めて登場する。大仏造営などを手掛けた行基が創建したとされ、行基の母をまつる尼影堂もあったが、戦国時代に戦火で焼失。寺付近にあったため池「福寺池」に名前を残したが、その池も戦後の宅地開発で埋め立てられた。 この記事は有料記事です。 残り309文字(全文611文字)
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く