勝負強い打撃で西鉄ライオンズ(現西武)の黄金時代を支え、独自の野球評論でも活躍した豊田泰光(とよだ・やすみつ)氏が14日午後10時41分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。81歳だった。喪主は妻、峯子さん。1935年、茨城県生まれ。53年に西鉄に入団、当時の高卒新人記録となる27本塁打をマークし新人王に。56年には3割2分5厘でパ・リーグの首位打者に輝いた。56~58年の
アイルランド出身の作家、ジェームズ・ジョイスの翻訳などで知られる英文学者の柳瀬尚紀さんが、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。73歳でした。 その後、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」など、数多くの作品の翻訳を手がけました。中でも、アイルランド出身の作家、ジェームズ・ジョイスの作品で、難解な表現で知られる「フィネガンズ・ウェイク」を、独特のことば遊びやだじゃれまで巧みに表現し、翻訳に関する数々の賞を受賞しました。また、柳瀬さんは長年にわたってジョイスの大作「ユリシーズ」の翻訳に取り組み、生涯をかけて完成を目指していました。家族や関係者によりますと、最近も精力的に翻訳を続けていたということですが、先月29日、肺炎で都内の病院に入院し、翌日の30日に亡くなったということです。
昨日、牧原憲夫さん(近代日本民衆史研究)が亡くなられました。 私としては何といっても『客分と国民のあいだ-近代民衆の政治意識-』(吉川弘文館)を編集させていただいた事。それが何よりの思い出です。 当時、私は吉川弘文館編集部にいましたが、「ニューヒストリー近代日本」シリーズの一冊として、それまで全く面識のなかった牧原さんに単著をお願いしたのは1995年くらいだったかと思います。が、いまとなっては記憶が定かではありません。 でも、最初は断られた事を憶えています。が、何とかねばって承諾いただいた。しかし、それからは早かった。たちまちのうちに書き上げてくれたと思います。 そして、原稿を初めて拝見したのは早稲田大学近くの旧い喫茶店でした。冒頭を読んだだけで、身が震えるほど感動しました。 たしか、牧原さんは「こんな事を書いてしまって、他の研究者からは総スカンをくってしまうかもしれませんね」となぜかニコ
シンセサイザーを使った電子音楽の第一人者で、音響作家としても世界的に知られた作曲家の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日、慢性心不全のため東京都内の病院で亡くなった。84歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男勝(まさる)さん。後日、お別れの会を開く予定。連絡先は日本コロムビア(03・6895・9771)。 1932年東京生まれ。幼少期を北京で過ごし、小学校から高校まで愛知県岡崎市で暮らした。慶応大在学中、朝日新聞社主催の合唱コンクール課題曲に応募し、1位となったことがきっかけで作曲の道へ。NHK大河ドラマの第1回「花の生涯」のほか、「新日本紀行」「きょうの料理」のテーマ曲などを作曲。漫画家の手塚治虫からの信頼が厚く、「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などのアニメ主題歌、カネテツデリカフーズのCM「てっちゃん」なども担当した。山田洋次監督「武士の一分」「母べえ」などの映画音楽にも貢献した。
「本の雑誌」で〈吉野朔実劇場〉を連載中の吉野朔実さんが、ご病気のため4月20日にご逝去されました。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
アニメ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の声や洋画の吹き替えなどで活躍した声優の大平透(おおひら・とおる)さんが12日、亡くなった。 86歳だった。 東京都出身。ラジオアナウンサーとして活動を始め、1956年、米国のテレビ映画「スーパーマン」でスーパーマンの声を担当。字幕から切り替わったばかりの生吹き替えに苦労しながらも、魅力的な低音で一躍人気者となった。「おはようフェルプス君」で始まる「スパイ大作戦」の指令テープの声や、映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーの吹き替えも担当した。 アニメでは「おらぁグズラだど」「ハクション大魔王」の主役のほか、米アニメ「ザ・シンプソンズ」のホーマーでも印象を残した。1989年に始まった藤子不二雄(A)原作の「笑ゥせぇるすまん」は、大人向けのアニメとして放送され、喪黒の「ホオーッホッホッホッ」という不気味な高笑いが話題を集めた。そのキャラクターは、近年のウ
日本近世史・近代史、宗教思想史の研究に大きな足跡を残した一橋大名誉教授の安丸良夫(やすまる・よしお)さんが4日午前、東京都内の病院で死去した。81歳だった。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。 富山県生まれ。京都大卒業後、名城大助教授などを経て一橋大教授。定年後は早稲田大で教えた。中世史の網野善彦氏や西洋史の阿部謹也氏らと並び、戦後の日本の歴史学界をリードした研究者の一人で、幕末の世直し一揆や自由民権運動などを検討し、斬新な民衆運動論を展開した。 表層下の民衆意識を把握すべく取り組んだ大本教などの新宗教の研究や近代日本の形成論、歴史学の研究史の再検討など、広範な業績を残し、宗教学や社会学にも影響を与えた。「安丸良夫集」(全6巻、岩波書店)ほか多数の著書がある。
世界的に知られるフランスの作曲家、指揮者のピエール・ブーレーズさんが5日、居住するドイツ西部バーデンバーデンで死去した。90歳だった。家族らが6日、声明で発表した。 最先端の音響・科学技術、思想、哲学など、多くのジャンルをとりこんで表現し、現代音楽界を牽引(けんいん)した。25年、仏モンブリゾン生まれ。パリ国立音楽院で作曲家メシアンに師事。代表作に「アンセム2」などがある。教育者としても活動し、「現代音楽を考える」など論考を多数執筆。70年代、パリにIRCAM(音響・音楽の探究と調整の研究所)を創設、所長に。科学の最先端技術を作曲や演奏の世界と結び、現代音楽の潮流を作った。 音の塊で聴衆を圧倒する傾向に背を向け、音楽の構造を冷静に分析し、緻密(ちみつ)かつ透明感のある響きで内側から熱狂させてゆくスタイルの演奏を貫いた。 76年、気鋭の若手演出家パト… この記事は有料会員記事です。有料会員に
ドイツを代表する指揮者で、日本でも人気の高いクルト・マズアさんが19日、自宅のある米国で死去した。88歳だった。日本にいる家族に連絡が入った。妻は声楽家のマズア偕子(ともこ)さん。 ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団やライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団など、ドイツの名門楽団で要職を歴任。ブルックナーやブラームスなどで、重厚さとぬくもりを感じさせる名演を数多く率いた。1991年からニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者やフランス国立管弦楽団の音楽監督も務めた。 社会的活動にも積極的で、東西ドイツ対立の平和的解決を目指して奔走。ベルリンの壁崩壊後も「東ドイツ子供基金」を創設したほか、日本にも支部がある「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ基金」名誉会長を務めた。
日本の4大公害訴訟の一つ「四日市公害」を記録して住民運動を支えた語り部、沢井余志郎(さわい・よしろう)さんが16日、心不全のため、三重県四日市市内で死去した。87歳だった。通夜は17日にとりおこなわれており、葬儀は18日午後1時から同市芝田1の5の31の四日市中央斎奉閣で。喪主は長女の夫阿部孝司さん。 戦後、四日市市内の紡績工場勤務を経て労働団体職員になり、公害問題に携わった。同市は1950年代後半から石油コンビナートの進出で大気汚染が悪化。「四日市ぜんそく」が社会問題になる中で、患者の自宅や病室を訪問した。被害者の声に耳を傾け、記録して実態を伝えることで、公害反対運動を裏方として支え続けた。 72年7月の津地裁四日市支部による住民勝訴の判決後は、公害の教訓を後世に残そうと反対運動の歴史の保存に取り組んだ。四日市公害の「語り部」役を担い、公害時代に児童がのどを洗浄した「うがい場」が残る市立
[訃報] アメリカ合衆国の政治学者であるベネディクト・アンダーソンが13日に亡くなった。79歳だった。現地紙の報道によると、ベネディクト・アンダーソンは13日の朝、インドネシア・東ジャワ州での滞在中に亡くなった。10日にインドネシア大学で公開講義を行った直後の出来事だった。ベネディクト・アンダーソンが公の場に姿を見せる最後の機会となった講義の様子は、以下の動画から閲覧できる。 ベネディクト・アンダーソンは1936年中華民国生まれの政治学研究者。 ケンブリッジ大学で修士号、コーネル大学で博士号を取得した後、コーネル大学で教鞭を執った。著書『想像の共同体』(Imagined Communities : 原著1983年刊行)はナショナリズム論の古典とされ、世界中で読まれている。『想像の共同体』は、わが国では白石隆・白石さやにより1987年に翻訳が刊行された。 photo: wordpress.c
家庭裁判所の裁判官を主人公にした漫画「家栽の人」の原作者で、作家の毛利甚八さんが21日、食道がんのため大分県の自宅で亡くなりました。57歳でした。 少年事件の解決と更生に強い信念を持って取り組む、植物好きの裁判官を主人公にした作品は当時、大きな話題を呼び、テレビのドラマにもなりました。 平成13年からは大分県豊後高田市に移り住み、少年院でボランティア活動をしながら、少年犯罪をテーマに作品を発表してきました。 毛利さんは去年7月に末期のがんと診断されてからも、治療を受けながら少年の更生に取り組む現場を精力的に取材し、先月、その成果をまとめた本を出版したばかりでした。 毛利さんは21日午前7時半ごろ、食道がんのため大分県の自宅で57歳で亡くなりました。
リベラルな立場で幅広い批評活動を展開し、戦後の思想・文化界に大きな影響力を持った評論家で哲学者の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが死去したことが23日、わかった。93歳だった。 1922年、東京生まれ。父は政治家だった鶴見祐輔。母方の祖父は政治家の後藤新平。38年に渡米し、翌年にハーバード大哲学科に入学。日米開戦後の42年3月、無政府主義者の容疑で逮捕されたが、戦時交換船で帰国した。43年、海軍軍属に志願してインドネシアに赴任。英語の短波放送などを翻訳し、幹部向けの情報新聞を製作した。 戦後の46年、雑誌「思想の科学」を都留(つる)重人、丸山真男らと創刊。米国のプラグマティズム(実用主義)を紹介するとともに、共同研究の成果をまとめた「共同研究 転向」は戦前・戦後の思想の明暗を新しい視角からとらえた。49年、京都大人文科学研究所助教授。54年、東京工業大助教授。 60年5月、岸内閣の新日米
市民自治による政治の確立を目指した政治学者で法政大名誉教授の松下圭一(まつした・けいいち)さんが6日、心不全で死去した。85歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻美知子さん。後日、お別れの会を開く予定。 東大法学部を卒業後、法政大助教授などを経て教授に。西欧政治思想史の研究から出発し、論壇でも早くから活躍した。皇太子(現天皇陛下)の結婚を分析した「大衆天皇制論」(1959年)では、絶対的な天皇のイメージに代わり大衆の支持を基盤にする皇室像が登場したと説き、注目された。 国家統治型から市民自治による分権型の政治への転換を唱えた著書「シビル・ミニマムの思想」(71年、毎日出版文化賞)では、農村型社会から工業・都市型社会への移行を踏まえた政策論を展開。市民が参加する「地域民主主義」に支えられた自治体が土台になって生活の最低条件が保障されていく、新しい政治像を提示した。革新自治体にかかわる人々の
ベトナム戦争に反対する団体「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連の事務局長を務め、平和運動などに力を注いだ吉川勇一さんが28日未明、慢性心不全のため亡くなりました。84歳でした。 大学中退後、ベトナム戦争が本格化した昭和40年からは作家の小田実さんや、哲学者の鶴見俊輔さんらが立ち上げた市民運動団体、通称べ平連の事務局長を務め、昭和49年の解散までアメリカの反戦運動と連携し、脱走兵の支援をするなどの活動を続けました。 吉川さんは、その後も予備校の講師を務めながら、非暴力と民主的社会の実現を目指すという目的で市民グループ「市民の意見30の会・東京」を結成したほか、近年は反原発運動にも参加していました。 関係者によりますと、先月30日にはベトナム戦争終結から40年を記念した集会に車いすで参加しスピーチをするなど、元気な姿を見せていたということです。 しかし、吉川さんは27日夜、体調が急に悪く
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く