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ASの人について少し理解してきて良く感じるのは、「実際に言いたいことは感情で、自分の気持ちであるのに、理屈で表現するから分かりにくい」ということだ。 確かにADHD以外の世界では理屈(理論的な内容)と感情(気持ち)は言葉の中で一体となって表現され、両方を発して両方を受け取るのが当たり前となっている。 しかし、ADHDからみて思うのは、「現実の実際の人間関係のトラブルは感情のぶつけ合いの部分で起こっている」「ASの人は感情的なことを理屈でしか表現しないので理解されにくい」ということだ。 例えば、「自分が疲れていて辛いことを理解して欲しい」という場合に、そのままそう言えばいいのに、(普通分かるだろうと何も言わないのは論外として)「今日は何時までどうこう」と仕事の話をしてみたり、また「あなたと離れたくない」というだけのことを、「離れるのはこれこれこういう理由で正しくない」と言ったりすると、相手(
ASの人をサポートすることに力を入れる場合、(これは私のジャイアンの部分の帰結でもあるのだが)結局のところASの人の「二面性」に非常に戸惑うことになる。 この二面性は、当人は認識していないことが多いようだ。「出来ない」に近いのだろうと想像するが、「愛着の場合とそれ以外の場合で行動が極端に異なる」というところだ。 言語的に指摘すれば、「分かっています」と言う。説明すれば、例えば「共依存にしかならない」という意味は理解できても、冷静に観察すれば、結局行動は愛着優先で決まってしまうことが多い。 依存的な相手をダラダラ甘やかしたり、自己中で理不尽な要求を全くきっぱり断れなかったりする。 私のジャイアン性の部分は「結果のほうから考える」ということだ。治療者としては結果がうまく行かなければ失敗である。 何度共依存につながる愛着の問題性を指摘しても、結局行動は何も変わらない。 「あなたは分かったと言った
AC、人格障害関連 ジャイアンの本質(中間総括)その4 2010/6/16 AC、人格障害関連, ADHD関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 5 各論4.依存型ジャイアン(ボーダー型) ジャイアン本人を溺愛する代わりに、言語的な説明を省いて主に非言語的なかかわりの中で全部親の思い通りになるように支配して育てた場合、ジャイアン本人は「その親をどうコントロールするか?」だけをテーマとし、その方向の能力だけを発達させて成長する。 この場合、「衝動は親にコントロールしてもらう」「この親から溺愛されるために親の気に入るようにする」というスタイルとなり、非言語的な状況察知能力の有無により異なるが、表情や言い方などの非言語的な表現の使い方に巧みとなり、非言語的に周囲をコントロールする技術を身につける。 例えばAS父親に溺愛されたジャイアン女子は、同じタイプ(ASが多い)の男性をコント
たびたび目にする非常に厳しい現実のひとつは、「例え母親は父親からのDVなどの被害者であっても、その母親の行動によって子供はACになる」ということである。父親のDVや無関心は子供がACになることの必要条件ではあっても十分条件ではない。兎にも角にも、母親とはつらい、厳しい立場であると言わざるを得ない。 ある男性のケースでは、暴君である父親が、成長した本人が父親を言い負かすと、逆に母親に八つ当たりすることが続き、ついに母親は本人に出て行くように言ったことでACになったことが分かった。この男性は非常に母親思いで、自分が母親から出るように言われたことがショックであったが、「母親も大変だから」と無理やりに自分を納得させてその後生きてきた。 「自分が(当然自分のために)父親を言い負かすことが、母親を苦しめる」ということを当の母親から告げられたことで、「自分の存在そのものが母親を思う気持ちと両立しない」と
AC、人格障害関連 親子の相性④親が自己正当化型ADHDの場合 2006/12/21 AC、人格障害関連, ADHD関連, AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 10 自己正当化型ADHDとは、もともとは私の母親を分類するために考えたカテゴリーだ。あまりに表面的で不合理な学歴偏重の認知や、自分の非を認めない特徴がありながら、その他は明らかにADHDであり、私は自分の仲間と認めるのにかなり抵抗があった。 親が自己正当化型ADHDの場合、支配的で愛着の強いASよりも事態は深刻だ。なぜなら自己正当化型ADHDは「価値観を押し付けるだけで、相手は見えていない」からだ。ASは支配的だがちゃんと人間として認知している。自己正当化型ADHDはそれさえしない。傍からみると「自分しか見えていない」という印象だ。 その結果、子供がどのタイプであれADHDの場合は、「話を聞
さて雑音は気にしないで私はジャイアンの心理の本質を見つめる作業を続ける。 「かわいそう」という都合の良い考え方もある。「見下す」というほど露骨でもなく、ある意味合理的な必要があるようなニュアンスも含む巧妙な考え方だ。 しかし実は完全に合理的な自己突っ込みからすると、「見下す」も「かわいそう」も全く変わらないことは誤魔化せない。 当たり前のことだ。言葉が違うだけで、「見下す」ことで、自分自身の中心志向が反応しないように盾の後ろに隠れている。 しかし実はもう一つの要素が絡むと実は自分を巧妙に誤魔化せるということに気が付いた。 その要素とは、「共依存」だ。 つまり、「かわいそう」=「見下す」+「一見合理的風」+「共依存感情」 ということになる。 相手を「見下し」た上で、「その相手にとって自分が必要だ」と思うことで、自分の不安も解決しようとする。そしてその構造全体をいかにも合理的な必要であるかのよ
私も以前そうであったが、「自分が迷惑がられるくらいならばそこに居たくない」という風に考えていた。 私が今相談に乗っている当事者の中にも、「ADHDの診断書を勤務先に出したくない」という人がいて、「もしも自分が採用を決めるほうの担当者なら発達障害のあるケースをいろいろ面倒なことを理解してまで雇うことはしない」という人がいる。 私は「その発言をしている時点で仕事は長持ちしないだろう」と忠告しているのだが、表面的なジャイアンは頑固でなかなか理解しない。 私は平成18年5月に「偏屈者宣言」で「普通」を諦め、「最低限」に目標を転換した。 その時点で自分が世間や周囲の人に偏屈で迷惑をかけるのはどうしようもない現実であることを認めた。 実際もしもそうなりたくないなら本格的に引きこもるか自給自足(昔は本気であこがれていた)するしか無い。 しかしながら、これは償うべき「原罪」のようなもので、「目に見えた社会
これを書くかどうかかなり悩んだが、やはり本当のことだと思うので厳しいことだが書いておく。 ウィルスは自身の細胞を持たず、生き物の細胞に寄生して自分を増やす。そのプロセスは「吸着」「侵入」「脱殻」「ウィルスの増殖」「脱出」と呼ばれる。 受動型ASは「自分」を持たず、依存しか出来ない点でウィルスに似ている。受動型ASはジャイアンと接する際に、最初は表面上優しく、断定的な表面上は確信に満ちたような表現をする。表面的で浅はかなジャイアンはその見掛けだけのもっともらしさに引っかかる。(吸着)。 次に受動型ASは引っかかったジャイアンを「誉め殺し」にして共依存に引っ張り込む。誉められたジャイアンはいい気になって、「あなたが必要」と依存する。(侵入)。 (ウィルスにとって浅はかなジャイアンは表面的でだまされやすく、簡単に引っかかる良いカモである)。 「あなたが必要」と言われた瞬間から受動型ASは態度を一
言語性IQの高い(言語性IQ優位の)ADHDの場合に、過集中の時を「本来」とみなして、地道な努力をする気になれなくなることがある。 過集中という現象はADHDには非常に快適だ。好きなことの場合、努力を省いても記憶出来、またしばしば多数派よりも高いパフォーマンスが可能となる。例えばある思春期ケースの場合には、難解な演劇の台詞を一度読むだけでほぼ完全に記銘し、家で練習しなくてもそらで言えたりする。 このケースが受験勉強に関して「集中できないで困る」と訴えることをよくよく聞いてみると、結局演劇の場合のように短時間で記銘できる集中が受験勉強では困難であるという意味であった。 私は主治医として「受験勉強は時間が長すぎるので過集中は使えない」と告げた。 過集中が使えるのは高々テストの一夜漬け程度で、受験勉強は長丁場なので効果から言っても継続時間から言っても過集中が使えない場合であるのだ。 躁うつ病の人
ASはそのままでACに非常に似ている。肝心の相手に自分の気持ちを言葉ではっきり伝えられなくて態度で示したり、支配的になったり、また「愛着の対象と自分の問題を区別することが出来ない」のは表面的にはACと非常に似ている。 だからAS自体とACとの違いは、実は「自己評価が下がっているかどうか」ということになる。ただこの場合の「自己評価」とは、「自分の高すぎる基準と比べて低い」とか、「愛着の相手や周囲から否定されて苦しかった」という意味ではない。 そういうわけで「ASのAC」というのは実は非常に複雑な状態となる。本来ASは(多数派やADHDの意味では)自己評価が下がりにくいので、その意味での通常のACとは違ってくる。 例えば「自分が駄目である」というよりも「相手に服従する」という形になりやすい。自分の考え全体をいったん放棄して相手に全面的に合わせるという意味で、本人から見て服従に近い。 ただ「受動
受動型ASの人の中で起こっていることを想像することは非常に難しい。特にADHDとは正反対であり、見当違いの推測をしないことが重要である。 このことを理解するのに非常に参考になるあるケースの話を書いておこう。 朝登校する前に腹痛や下痢になる思春期の発達障害の人は多いだろう。そのまま登校の時間が過ぎると腹痛や下痢は治る。表面的には仮病と誤解されることもあるが、ストレスによる身体症状だ。 ところがここから先が根本的に違う。受動型ASの場合は、「登校したら腹痛は治る」ということが起こるのだ。 厳密には痛みがあるのは、登校の途中までの間、愛着の親などと一緒に居る間だけで、学校の敷地に入った後は、驚くことに腹痛は無いのだ。 別のケースでも、「送る車が学校の駐車場の敷地の境界線を横切るとそれまで運転する母親に怒号を浴びせていたのが急にすました顔になり行って来ますと降りていく」ということは聞いていた。 こ
境界性人格障害とアAS(アスペルガー症候群は)一見似ている部分が多い。(特に男性のASは)依存的で支配的、、直接言葉で言わないで相手を操作しようとするように見えるあたりは、形上は診断基準も満たす可能性がある。 しかし境界性人格障害は多くは幼少時の環境などに対する反応性の「状態」で、ASは自閉症の仲間の発達障害である。当然ケアは全く違うものになってくる。 鑑別はそれほど難しくない。思春期前の生活歴を詳しく聞けば、ASは特徴的な偏食(感触での好き嫌い)、聴覚過敏、服装へのこだわり、予定の変更に対応できない、物を捨てられない等の自閉症的な特徴で除外可能だ。 境界例の場合は見捨てられ不安を生み出す認知のゆがみを修正するカウンセリング(認知の修正)で治療可能である。 一方ASの場合はまず診断をつけ、本人と家族に自閉的な特徴を説明して理解してもらい、現実的な適応をはかる。(コーチングという)。 大事な
自己診断追記 ADHDとASの違いの本質 ADHDとアスペルガー症候群の違いについて、最近の私のイメージが少し明確になったので書いておこう。 ASの対人関係の本質は「絶えず他者の存在が前提となっており、またその他者との関係が非常に近い」ということである。「愛着」までなくても、その「他者との距離が非常に近い」ということだけでASとADHDを区別できる。 例えばASの人はDVなどで痛めつけられても相手から逃げたり距離をとる発想自体ができないことが多い。「傷つけ合っても離れない」という認知と行動のパターンとなる。 対してADHDは、「他者の存在が前提されていない」「意識しない限り他者は直感できない」ということで、「まず当たり前に自分のことは自分ひとりのこと」ということになる。 例えば「あなたにも聞いてほしい」と言われなければ自分がその「場」を共有していると考えないなど。 自己正当化型ADHDは人
ADHD(注意欠陥多動障害)は、前頭前野の統合機能が少し低下している状態と言われ、「状況が分からない」「過集中と虚脱のパターン」などが見られる発達障害の一つである。状況が分からない結果、自分に不利になることを言わないことや嘘をつくことは不得手で、また周囲の雰囲気や態度、表情を読み取ることも不得手で、結果として見当外れな「思い込み」「決め付け」になってしまうことも多い。一般には「片付けられない」という結果的な適応障害ばかりクローズアップされているが、本質は「脳の働きの質的な違い」であり、管理能力の高いADHDは片付けは出来る。状況が分からない部分が最も重要である。 他方でADHDは本来非常に正直で合理的であり、先入観にとらわれず、思っていることを何でも口に出してしまうため、自分を偽ることに非常に違和感を感じ、時にはACの認知のゆがみ自体を合理化する独特の理論体系を考え出したりもする。 一方A
ASの人と接していて不思議なのは、「別のところでは強く自分の意見を言えるのに、肝心な相手に対して肝心な場面ではほとんど主張できない」という特徴だ。このパターンは受動型ASだけでなく、ほとんどのASの人が愛着の対象に対して持っているように思う。 私がこれまでASの当事者に聞いてみて分かったのは、「相手は説明しなくても分かっているはずだから」、「愛着に関係ない第三者がその場に居るとどう聞かれるか分からないから言えない」、「大事な相手であり、反発されるのが怖すぎて言えない」 など、いくつかの説明が可能ではある。 ASの人が理解しておくべきことは、これが周囲からどう見えるかということだ。はっきり言われないことになる重要な相手から見ると、「他の人に陰では自分の文句を言うのに面と向かっては言わない」という風に見えるので、多数派や、特にADHDから見るとアンフェアであるという印象を持たれてしまうのだ。
ADHD関連 引きこもりの理論 – 現実的想像力の不足 2008/11/15 ADHD関連, AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 29 前述の「言語性IQ >> 動作性IQ」 のケース(言語性優位型と呼ぶことにしよう)に見られる認知と思考・行動の一つの大きな特徴は、「現実的想像力の不足」である。 例えば将棋などのゲームでは、「自分の指した手と次に相手が指すであろう手、その次に相手は・・・等」と対局の流れを「読む」ということをする。(実は私は相手の手の意図が読めないので単純な駒取りを見逃して飛車を取られたりしてよく負けるのだが)。 これと同様に、対人関係や社会組織の動きなどにも「自分がこう行動すれば相手はこう」というこれからありうるであろう経過を想像することが行われる。 上記の「現実の成り行きがこうなるだろう」ということをいろいろ想像する能力を「現実的
「相手の気持ちが分からない」自分を有利にするための嘘はつかない。 正直、純粋、不器用。 情緒的でなく合理的。 状況は分かるが独特の理解をする。自分のこだわりに忠実。 自分を有利にするための嘘はつかない。正直、純粋、不器用。 「空気が読めない」とは言う。
日本の社会は憲法の生存権を根拠とするセーフティネットがあるので、働けなくても飢え死にすることは無い。 (ただ最近生活保護もどうなるか不安であるが) しかしながら、障害年金に関しては認定基準は変わらないものの解釈が非常に厳しくなり、どんどん受給が難しくなることは間違いない見通しだ。 私はこれまで就労支援を強力に進めてきた。 とりあえず働けるところへ持っていくことをゴールに、薬も認知能力低下の副作用の軽いものに変更し、ありったけの環境調整を進めて来た。 現実的な目標としては、「障害年金と障害者就労で経済的に自立する」ということを当事者とともに考え続けてきた。 しかしながら、今回の審議会の結果から、今後の障害年金では、「働けば年金は切られる」ということは間違いなかろうと考えざるを得なくなり、現実的な治療目標を変更せざるを得なくなった。 就労を目標にすることを止めよう。 なぜなら、「就労して年金を
最近学習障害を疑って最近よくWAISⅢのテストの結果を見るが、発達障害で受診に至る人に共通したパターンがあることに気付いた。 言語性IQ > 動作性IQ というパターンだ。 私は実は学生時代に心理テストをまじめに勉強していなかったので、読み方は臨床心理士に教えてもらうしかないが、一緒に説明を聞いているだけでも、本人の認知と行動についていろいろな説明が可能となる。 例えば、数例見かけるが、「言語性IQが正常よりも高くて、2つの差が異常に大きい」というケースは結果的に引きこもり傾向となり、引きこもりを正当化するような立派な理論体系を持っている。 これは本人にとっては「常に、考える様には現実はうまく行かない」という結果になるわけで、本人の高い言語性のIQからすると現実の地道な努力やその割に成果が上がらないことなどは認めがたい、理解困難ということになると想像する。 他方周囲から見た時も、言語性が高
ADHDの浪費とは全く違う意味で、ASも金がかかる。 例えば「新車」や「最新型」、「新築」、「最高級」というこだわりを持つASの人は多い。実利的で合理的なADHDから見ると「みすみす高い買い物を」という風に見えるのだが、例えば「他者と浴室などを共有できない」というところまで潔癖症の人もいて、「生理的に中古は駄目」と言われれば仕方がないようにも思う。 「健康のため」にこだわるASの人も多い。サプリや食品、調理道具などは最高級の高価なものを惜しげなく買う。体に直接触れるものは特にこだわりがあるようだ。 この「こだわり」で不思議なのは、「お金があるかどうかは関係なく」ということになることだ。「こだわり」に対しては損得計算も収入と支出のバランスも無意味になる。 傍から観察する限り、本人の中では「こだわりについては日常のほかの会計とは全く別会計」という感じになっているようだから、本人は「節約している
成人発達障害の臨床の場で家族歴を聞くと、アスペルガー症候群とADHDのカップルが非常に多いことが分かる。特にADHD女性の場合には、全てのケースに「夫はASの可能性は?」と質問する価値があるほど多い。 ASは何故ADHDが好きなのか、いろいろな要因が考えられる。「ADHDは嘘をつかない、正直」、「相手の人格を尊重して束縛しない」、「偏見が無く、少々こだわりなどのAS側の特殊事情があっても現実的に対応できる寛容さがある」など。 この場合ASは積極奇異型が多く、強烈な愛着からひたすらラブコールをし続けてADHDのほうは「こんなに想われているなら、正直でいい人であるし、断ることもない」という感じでカップルになりうる。 ①積極奇異型AS-合理的ADHDカップルは、AS側があまり束縛すると、ADHDが窮屈となって破綻へ向かうことが多い。AS側が服従し続ければ、妻が遊び続けても許す「理想の夫」となり、
ASがADHDに何故惹かれるのか考えていて、「理解できない」「支配できない」ことの意味に思い当たった。 最近までテレビ放映していた「のだめ」のようにADHDは徹底的に場当たり的で、ASから見たら「問題外」と映るような理解不能な相手になるはずだ。 しかしADHDにはどんどん変化していく「面白さ」「可能性」がある。もちろんASは「可能性」が生じるや否や自分の理論に取り込むべく「理解」(AS的にはASを不安にする不確定性を無くした形の説明をこじつけであっても立てる)しようとするが、その理解よりも早くADHDは変化していくので、「永遠に理解しきれない、自分に不安を起こさせ続ける相手」であるのだ。 この問題を「相手が多数派や受動型ASであった場合」と比較して考えると分かりやすい。多数派も受動型ASも、ASからすれば反応を「計算できる」。だからどうでもして「コントロールできる」相手である。 コントロー
成人発達障害を診てきて驚くのは、夫がアスペルガーで妻がADHDのカップルが非常に多いことだ。基本的にASはADHDが好きなようで、愛着の対象になりやすい。 ASの夫は、支配的で、よくDVで問題になる。妻の全行動をコントロールしようとしたりする。ところがADHDの妻は、極端にマイペースで、夫がそんなことを考えていても、相手にしない強さがある。ASは一見強そうに見えるが実は依存的で、ADHDの妻が支配できないと分かると一転献身的に尽くす理想の夫に変身する。 逆に考えると、「ASの男性が発達障害以外の女性と同居し続けるのは非常に困難」ということかもしれない。女性のほうが持たなくて、DV問題になってしまう。 ADHDのほうがうざったくなって離婚することも多い。中には繰り返しASと結婚するADHDもいる。 こういうケースで困難なことは、「子供がASであったりADHDであったりして、虐待問題になる」と
「やらなければならないことが分かってるのに手が付けられない」 ADHDは「先延ばし」をしている時にうつ状態になる。意欲が低下して、不安が強く気分が不安定となり、時には希死念慮も出てくる。楽しいはずのこともまったく楽しめない。特徴的なのは、「居留守」が見られることだ。 この「先延ばし」は自己突っ込みと関係している。ADHDは合理的で、自分にも人にも厳しい、「言っていることとやっていることが違う」ことなどには激しく突っ込む。その分自分自身にも厳しい。 「必要なことは分かっているのに取り掛かれない自分を許せない」「何で自分がこんな不合理なことをしているか?」「他人が不合理、不条理をしている時には突っ込むのに自分は何だ?」等。 私が診療していたケースでは、「夫の負債があることには気付いていたが確認することを先延ばししていた」「自分自身が自己破産するしかないことの先延ばし」「論文を書いたらうつが治っ
最近私は発達障害当事者に「冷たく」なっている。ADHDにもASD(自閉症スペクトラム)にも、私が以前に行動してきた「事実、行動」としての配慮を「本来するべきではない」と考えるようになってきたからだ。 ADHDの場合、KY(状況察知能力の不足)が重症なケースは、「やってくれるのが当たり前」という風に認識してしまう。 相手が私でなくても要求する可能性があり、また相手が私でなければ要求しないのであれば私もしないほうが良いだろう。またASDの場合は、「この個人的関係では当たり前」という風に認識されることが多いだろう。 いずれにしても、その瞬間に「依存」が生じ、これは当事者自身のためにマイナスでしかないのだ。 基本原則としては、「理解はするが配慮はしない」という風にするのがベストと考えつつある。 他方で私は発達障害の中学・高校生の主治医としては、例えば「高校入試の配慮で1.3倍の時間を要求する」 な
AS-ADHDカップル② -- ADHDのACであった場合 ADHDのACは自己評価が極端に低く、非常に強い「理解されたい」という衝動を持つ。(「愛されたい」というのとの違いは微妙だが) だから一途で「ひたすら」さがあり、時には命がけであったりする積極奇異型ASからの想いと行動はADHDのACを安心させる。また、合理的なADHDと同じように、AS側が多少風変わりなスタイルがあっても対応が出来る。「私のことを理解してくれるのなら何でも受け入れられる」という感じだ。 こうしてカップルとなり、結婚したりすると、ADHDのACはだんだん安定してきて、ACの部分(認知のゆがみ)が治り、本来のADHDに戻る。「ASの一途な思いで治してもらった」ということになる。 しかしそうなると今度は本来人を必要とせず、自由と自律を愛するADHDは、積極奇異型ASの支配的な部分が目に付き始め、特にもともとが自己正当化
ADHDの子供を持った親には、普通の親とは全く違う別の役割が生じる。 それは「ADHDの子供自身の自己責任環境を確保する」ということである。 発達障害全般に言えることであるが、特にADHDの場合、「第一原則」とも言うべきケア上最も重要なポイントは「自分で納得するしかない」ということである。 実際にADHDの子供でも大人でも接したことがある人にはすぐに分かることであるが、「ADHDは言われただけでは行動しない」「本当に自分で納得しないと行動しない」。 (もしもADHDでありながら自分が納得しなくても言いなりになる場合には、非常に困った「依存」のパターンが想像され、これは本来のADHDよりもさらに不健康ということになる) 「自分が納得するしかない」という第一原則から直ちに、「結局自分で失敗して修正する以外にはほとんど学習できない」ということが導かれる。 私もそうであるが、実際ADHDの自然経過
ADHD関連 ASに似たADHDの状態①AS被影響症候群 2007/2/25 ADHD関連, AS(アスペルガー)関連, その他(医療関連), 研究, 診療 コメント: 19 ADHDが表面上ASに似た状態になるものの一つは、「AS被影響症候群状態のADHD」がある。 ADHDが、主に接する親や配偶者にASがいる場合に、そのASの価値観や主義に合わせなければならないと思い込み、本来のADHDらしさを押さえて強迫的になる状態のことを私はAS被影響症候群と呼ぶ。 実際のケースでは、強迫的に家事を必要以上にきちんとしたり、子供にも異常に厳しくなったりする。不安が強く、閉所恐怖症になったり、「車で何かを踏んだと思い何度も戻る」などの風変わりな確認強迫の症状が出たり、パニック障害様になったりする。 ほとんどの場合はDVなどの経過で「離婚や別居してから驚くほどずぼらになった」という見かけとなり、その後
さて前回まででASの自己診断(総論)は一段落として、いったん「人に対する愛着が無い」となった人の自己診断に戻る。 ここに残ったほとんどの人はADHDと分類されることになるが、この後にADHD関連で私は5つのタイプに別れると考えている。 その最初に、まずこの「ADHDグループ」には、「人を必要としない」の他、「移り気で刺激を求める」、「(まだ使えるから)物を捨てられない」、「いろいろな作業を同時進行でいくつも進めてどれも終わらない」、「納得しないと行動しない」、「臨機応変で場当たり的」、「言葉を真に受ける」などの特徴がある人が残っているはずだ。 ただ、ASのときと同様に、「二次障害として痛い目にあったから自分で多数派に合わせるようになった」ということを考える必要があり、こういう場合は上記の「ADHDらしさ」は一見目立たなくなる。これを私は「ADHDのAC」と呼ぶ。 ADHDのACとは、「自分
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