芸術――この場合、諸芸術というのではなく、絵画・彫刻を中心とするファインアート――はたとえば他のジャンルと比べて「公共的」なのだろうか。何故、複数存在するジャンル(そう、たとえば部屋に転がっている、あるいは今やスマートフォンで読まれるマンガや、テレビやインターネットで放送・配信される動画コンテンツたち)のうち、ファインアートだけが特権的に美術館制度や大学制度などの、国家の制度による保護を受けている[1]ように見えるのか[2]。展示されているものこそが「良きもの」であり、その価値を受け入れない者は、「感性の無いもの、悪いもの」とされてしまうのだろうか。そう、美術制度には「権威」が常に張り付いているように見える。 あいちトリエンナーレを巡る「騒動」(展示そのものの主題ではなく、飽くまでその周囲)において度々見ることになった「偏った政治的な主張に公金を使うのはいかがなものか」という発言や態度は、