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「ヘイ、そこでマイクを持ってるキミ」 グレイトフル・デッドのギタリスト、ボブ・ウィアはステージ上から呼びかける。不埒な輩を叱ろうとしているのか? 「いい音で録音したかったら、40フィート(12メートル)ぐらい下がるといいよ」 ベーシストのフィル・レッシュも加わる。「後ろの方がずっといい音だよ」 1971年8月。グレイトフル・デッドのコンサート会場で、ファンによるライヴ録音が定着し始めたのがこの頃だ。デッドはハリウッド・パラディアム2回連続公演の2晩目の演奏をしていたところで、これは奨励の言葉だった。ミュージシャンがファンに、コンサートを録音するのに最適なポジションをアドバイスしているのだ。こんなことがあったということを、どうして我々は知っているのか? それはもちろん、テープに記録されているからだ。[これを聞け→●2トラック目〈Bertha〉6:54~] あのハリウッド公演から16年経った今
コンサート音源の流通量と質はバンドの方針に大きく左右され、ファンによるコンサートの録音に寛容なバンドほど、音源の質は高く、量も豊富です。その最たる例がグレイトフル・デッドではないでしょうか。1970年代からコンサート会場への録音機材の持ち込みには比較的寛容で、1984年からは公式的に録音者用セクションを設置したほどです。サウンドボード音源も時々ですが、バンド側から、ファンの間で流通することを承知で提供されていました。 とはいえ、インターネットで誰でもライヴ・レコーディングをダウンロード出来るようになるのは2000年頃からであり、それまではRelix誌等のお友達募集欄を通じて同好の士を見つけ(私もこの雑誌に大変お世話になりました)、音源をメディアにコピーし、郵送しなければなりませんでした。DATやCDRといったデジタル・メディアが登場する以前は、コピーを重ねるごとに音質が著しく劣化するアナロ
以前、このページではロックとオカルトの関係を論じた『Season of the Witch: How the Occult Saved Rock and Roll』の著者、ピーター・ビバーガルのインタビューを掲載しましたが、この本と前後して入手した『Aleister Crowley: Magick, Rock and Roll, and the Wickedest Man in the World』も、ロックへの影響を記した章がなかなか充実しているなあと思ったら、著者ゲイリー・ラックマンは元ブロンディーという経歴の持ち主でした。 イギリスの心理学者、ジュールズ・エヴァンスがラックマンにインタビューした上で、ロック・ミュージックに対するアレイスター・クロウリーの影響について鋭く分析している面白い記事を発見したので、ここで紹介します。 クロウリーの子供たち:どうしてロックはアレイスター・クロウ
コンサートの録音というと、今でこそ専用スペースが設けられてることも時たまありますが、まだまだ一般的には密かにこっそりやることであり、会場では「無断で写真撮影、録音等を行なうことは堅く禁じられております」というアナウンスを聞くことが普通です。かつて記録媒体としてテープが使われていたことから、コンサートを録音する人は「テーパー」と呼ばれるようになって現在に至りますが、21世紀に入ってテープを使う人が殆ど絶滅状態であるゆえ、もっと適切な呼び方がそろそろ見つからないものでしょうか。 それはともかく、世界中に名物テーパーがいて、それぞれが特に力を入れているバンドやミュージシャンや音楽分野、活躍する都市を持っているのですが、所詮日陰の存在なので表立って名前が出てくることは極めて稀です。しかし、既に故人で、しかも、録音したものがあまりに貴重ということで、ウィキペディアに登場しているのがマイク・ミラードで
1978年2月28日、3月1日の公演が正式に録音されたテープからレコードが発売されるなんて、21世紀も捨てたもんじゃありません。(似たようなリリースがあるたびにそう思います) 初来日公演は、フルートぴろぴろのアレンジがロックファン一般に気に入られなかったか、年越し前に正式なライヴ・アルバムがリリースされたためか、いろんな理由があったと思うのですが、アナログ時代には日本公演のブートレッグは皆無でした。西新宿にあったあのKINNIEもボブのブートは作りませんでした。海外では3月のオーストラリア公演、6月のロス公演、6~7月のヨーロッパ公演が、その思い出が消えないうちにいくつもリリースされているんですけどね。 日本公演からは、ただ、2/28の〈Reposession Blues〉のみ、1983年にリリースされた《Nearer To The Fire》と、1985年にリリースされた《Don't S
1974年9月、ニューヨークのA&Rスタジオではボブ・ディランが『血の轍』をレコーディングしており、セッションの一部にはミック・ジャガーも同席したことが知られています。『Simple Twist Of Fate: The Making Of Blood On The Tracks』や『Stolen Moments』等に書いてあることを総合すると、少なくとも17日と18日のセッションにおじゃましていたようですが、どの本にもミックがニューヨークにいた本当の理由は書かれていません。たまたまニューヨークにいたのでスタジオに遊びに来たのかと思ったら、実はそうではないようです。ミックは同じスタジオで、『Nasty Music』『Bedspring Symphony』『Brussels Affair』『Tour De Force』『Europe '73』等の有名ブートレッグになったラジオ・ショウ用のミキ
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