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円安とは
hodge02.hatenablog.com
YouTube にカミール・パーリアの映像があった。動き、話す、パーリアの姿を見てちょっと興奮した。 Camille Paglia on Real Time with Bill Maher 意外に……大人しかったかな(笑)。↓ のようなイメージがあったので。 Vamps and Tramps: New Essays 作者: Camille Paglia出版社/メーカー: Penguin Books Ltd発売日: 1995/10/26メディア: ペーパーバック クリック: 2回この商品を含むブログ (1件) を見る カミール・パーリアと言えば「ジャンクボンドとコーポレート・レイダー」というエッセーが強烈だった。1991年に発表されたもので、デイヴィッド・ハルプリンの『同性愛の百年間──ギリシア的愛について』をクサしながら、フーコーやデリダといったフランスの思想家を批判し、さらにはフランスか
ここのところ<良心>の問題について考えていて──とはいっても四月は忙しい月なので本を読んだりする時間がなかなか取れないのだが──昨日はマーサ・ヌスバウムの『幸福な生の傷つきやすさ』を読んだ。ヌスバウムはアリストテレスに則して「よく生きる」ことについて、とりわけ「道徳」と「運」の関係について考えさせてくれた。後で感想のようなものを書きたいのだが、その前に、id:Arisanさんのプラトンの『国家』の解題のエントリーを読んで、いわゆる「詩人追放」の部分で僕がこれまで漠然と感じていたもやもやした思いが、そこで非常に明確に言語化されていた。とても納得のいく説明だった。それについて引用させていただきたい。この点についても後で整理できたらと思う。 プラトンは、ここでは詩を非難しているというよりも、詩に対する「大衆の恋」こそを遠ざけようとしている、と見るべきだろう。 つまり、危険は、虚構それ自体にあるの
まだ続いています(笑)。 シャーロット・パーキンズ・ギルマン「黄色い壁紙」(創元推理文庫『淑やかな悪夢』) スティーヴン・ミルハウザー「幻影師、アイゼンハイム」(福武書店『バーナム博物館』) テネシー・ウィリアムズ「片腕」(白水社『呪い』) フセーヴォロド・ガルシン「赤い花」(福武文庫『ガルシン短編集』) トマス・バーク「オッタモール氏の手」(光文社文庫『世界傑作推理12選 エラリー・クイーン編』) ボリス・ヴィアン「良い生徒たち」(早川書房『人狼』) ウラジーミル・ナボコフ「目」(白水社『四重奏・目』) ボリス・コンスタンチーノウィチ・ザイツェフ「静かなあけぼの」(集英社『ロシア短編24』) ハンス・ヘニー・ヤーン「家令を選ぶとき」(白水社『十三の無気味な物語』) シャーリイ・ジャクスン「くじ」(早川書房『くじ』) 中島敦「山月記」(角川文庫『李陵・山月記』) ミュリエル・スパーク「ポー
前回に引き続き、15編を選んでみた。 ジェイムズ・サーバー「マクベス殺人事件」(早川書房『虹をつかむ男』) クルト・クーゼンベルク「秩序の必要性」(国書刊行会『壜の中の世界』) シオドア・スタージョン「たとえ世界を失っても」(河出文庫『20世紀SF 1950年代』) ジュール・シュペルヴィエル「海に住む少女(沖の少女)」(光文社古典新訳文庫『海に住む少女』) グスターボ・アドルフォ・ベッケル「ミゼレレ」(岩波文庫『緑の瞳・月影』) ハンス・ハインツ・エーヴェルス 「蜘蛛」(創元推理文庫『怪奇小説傑作集5』) 福永武彦「夢みる少年の昼と夜」(新潮文庫『夢みる少年の昼と夜』) 大江健三郎「空の怪物アグイー」(新潮文庫『空の怪物アグイー』) ハンス・エーリヒ・ノサック「海から来た若者」(岩波文庫『死神とのインタビュー』) ジョヴァンニ・パピーニ「きみは誰なのか?」(国書刊行会『逃げてゆく鏡』)
inmymemory さんの「短編小説(掌篇)神髄168選(私家版)」に触発されて、「印象に残った」短編小説のリストを組んでみたくなった。ただ、一度にリストアップすると、あれを忘れたこれも入れたかった……となってしまうので何回かに分けて書いていきたい。100はいくかなー。短編だから読み返してみて感想も書くかもしれない(さっきフラナリー・オコーナーを読み返して「うわぁ、すげえ」と思った)。 それと……本(小説)を読むのはもちろん好きなのだが、それに劣らず、「本についての本」を読むのも凄く好きで、かつて角川文庫から出ていた『読書の快楽』や雑誌『ブルータス』特集「20世紀読書計画」、『グルーヴィブックリビー2001』あたりのガイドブックを片手に本の猟書をしたのも思い出した。まあ、要するに、本について語ることはとても愉しい、ということだ。 今回は以下の15編を選んでみた(検索しやすいように、その作
地下鉄で「メルケル首相による逆構造改革」云々というタイトルの載った『ニューズウィーク』の中刷り広告を見つけて、ちょっとビビっている──というのも最近「€」で記載された Proforma Invoice を扱うようになったので。 まあ『ニューズウィーク』はこれから読むとして、今週は忙しくて巡回できなかったお気に入りのブログを読んでいたところ、興味深いエントリー(ブーム?)があったので、僕も今更ながら便乗してみたいと思う──まるで船舶運輸のように時間が掛かってしまったが。 「石版!」さん「経由」で知った「私家版世界十大小説」がそれだ。 まず、以下が僕の「十大小説」だ。本当は「小説の神様」であられるヘンリー・ジェイムズの10作でリストを作成できるのだが、いちおう一作家一作品という規範に従っておこう。 ヘンリー・ジェイムズ 『鳩の翼』 ジョゼフ・コンラッド 『西欧の眼の下に』(『西欧人の眼に』)
ウィリアム・ブレイクって絵画作品だけではなく詩(Poetry)もいいんだよな……と思いついたので、岩波文庫あたりの詩集を中心に──つまり翻訳詩で──選んでみた。 ウィリアム・ブレイク 『虎』(The Tyger) ウォルト・ホイットマン 『ぼく自身の歌』(Song of Myself) エミリー・ディキンソン 『わたしは「死」のために止まれなかったので』(Because I could not stop for Death) E.E.カミングズ 『バッファロー・ビル』(Buffalo Bill's) パウル・ツェラン 『死のフーガ』(Todesfuge) ロバート・フロスト 『消えろ、消えろ……』(Out, Out─) アルチュール・ランボー 『出発』(イリュミナシオン、Illuminations) エドガー・アラン・ポー 『大鴉』(The Raven) ジョン・ダン 『恍惚』(The E
読書の秋だけではなく、芸術の秋でもあるのだから…というわけで十大アートも。ただ、画像の関係でそのアーティストの代表作や別の作品も併記している。 ミケランジェロ作『ダビデ像』 Michelangelo: Sculptor Painter Architect 作者: Elena Caretti出版社/メーカー: David & Charles発売日: 2006/09/29メディア: ハードカバー クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見るなんといってもダビデ、最高! → David von Michelangelo [Wikipedia](以下、断りのない限りウィキペディアにある画像の URL になっている) [関連エントリー] ミケランジェロ『ダヴィデ』 戦う前の姿 ブロンズィーノ作『本を持つ若者の肖像』 Bronzino: Renaissance Painter as Poet
「私家版世界十大小説」を選んだり、ヘンリー・ジェイムズの『大使たち』が文庫化されたりと、ここのところ文学熱が再燃してきたので、その勢いに乗って(その熱気が冷めないうちに)いろいろと書いておこうと思う。 で、ドイツの小説について。ドイツ文学と言うと、ゲーテやトーマス・マン、ギュンター・グラスといった文学者の名前がすぐに浮かぶのだが、もうすこし──なんというか──カジュアルに楽しめないかな、と思ったりする。古典はともかく、現代小説やエンターテイメントが翻訳されるのは、英米小説に完全に負けているし。 でも、だからこそ、邦訳されたドイツ小説は粒揃いの作品ばかりだ。なんといっても同時代の等身大のドイツの人々のライフスタイルを知ることができる。描かれたベルリンやミュンヘンはニューヨークやロスアンジェルスなどの都市とはどのように違い、また似ているのか。そこに暮らす人たちの考え方は? とくに同学社(htt
『プロスペローの本』で思い出したのだが、 そういえば、ノルベルト・ボルツが『グーテンベルク銀河系の終焉』でヴィム・ヴェンダースとピーター・グリーナウェイを比較しつつ、プロスペローこそがグーテンベルク銀河系の最初のメディアの名人(ヴィルトゥオーゾ)であり、したがってその物語をハイテクの条件のもとで繰り返すことにより、グリーナウェイ自身はエレクトロニクスの時代の最初のメディアの名人となる、と、なんだかやけに興奮気味な論を展開していた。 グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス) 作者: ノルベルトボルツ,Norbert Bolz,識名章喜,足立典子出版社/メーカー: 法政大学出版局発売日: 1999/12メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 19回この商品を含むブログ (12件) を見る ボルツによれば、グリーナウェイは、映像の乱流から文字へと
作曲家、矢代秋雄の音楽論集『オルフェオの死』を読んでいるのだが、すごく面白い。忌憚のない発言がどしどし出てくる。例えばアンドレ・ジョリヴェに対してなんか「はっきり言ってしまえば、大嫌いである。まず、私はこの人の顔が嫌いだ」と、冒頭からテンションが高い(笑)。 もう少し「冷静な」考察を記しておきたい。『ラヴェル考』というモーリス・ラヴェルについての論考だ。1957年11月号の「フィルハーモニー」に掲載された。 何よりドビュッシーとラヴェルの違い──「ラヴェルは、ドゥヴュッシーのとなりに座らせられた時に、最も、すわり心地が悪かったであろう」──が明快に述べられる。 ドビュッシーは偉大なる破壊主義者であった。が、ラヴェルは違う。チャイコフスキーのような、歌い出したくなるようなメロディがそこにある。リズムにしても、ドビュッシーのように「トランキライザーを飲みもせず」「ヒロポンを注射したり」もしなか
川本隆史 著『ロールズ 正義の原理』を読んでいる。興味を惹いたところがあったのでメモしておきたい。 ロールズが《ルール》という用語を明確化した論文「二つのルール概念」について。この論文で彼は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にヒントを得、「ある実践(プラクティス)を正当化することと当該の実践に含まれる個々の行為を正当化すること、その両者の区別の重要性を指摘する」ことを目指したのだという。 彼は行為功利主義者が陥りがちなルール観を「ルール=要約観」と名づける。これは、ルールなるものを<個々のケースに功利主義を直接適用した結果得られた過去の諸決定の要約>と考える見解であって、ケースごとの意思決定がルールより論理的にも先行する。たとえば「約束を守るべきである」とのルールをこの「要約観」で説明しようとするなら、これまで各種の約束を履行した場合にすべて有利な帰結がもたらされたので、約束の遵守がル
「恍惚/Swoon」のエントリーで触れた、チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso)について初めて知ったのは、多分、イギリス──というよりスコットランドの作家フィリップ・カー/Philip Kerrの『殺人探求』という小説だったと思う。 原題は『A Philosophical Investigation』で1992年に出版された。 殺人探究 (新潮文庫) 作者: フィリップカー,Philip Kerr,東江一紀出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1997/05メディア: 文庫 クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見るA Philosophical Investigation 作者: Philip Kerr出版社/メーカー: Plume発売日: 1994/03/01メディア: ペーパーバック クリック: 2回この商品を含むブログ (1件) を見る 先に『ミステリ
ご存知の方も多いと思うが、アメリカ在住の21歳のマルチタレント「wzauscher」氏が、YouTube で人気を博している。彼のクラシック音楽に対する独特の「解釈」は、うるさ型のクラシック音楽ファンでさえ頷かせ、世界中に笑いと感動をもたらしている。本当に凄い才能だ。 例えば、グノー=バッハの『アヴェ・マリア』はこんな風──しかもヴァイオリンの腕前も披露してくれている。 Gounod マーラーの交響曲第9番には鬼気迫るものがある。 Mahler 9 - 1st Mov't そしてバッハ。ポリフォニックな音楽というものを見事に「視覚化」させてくれる。彼は天才だ! Bach Bach Bach [wzauscher] http://www.youtube.com/profile?user=wzauscher http://www.wzauscher.com
永野潤 著『図解雑学 サルトル』(ナツメ社)を読んだ。ジャン=ポール・サルトルについての解説書で、絵と文章でプレゼンテーションされている。平明でわかりやすく、サルトルの多彩な思想・活動を、改めて、概観できる。 図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ) 作者: 永野潤出版社/メーカー: ナツメ社発売日: 2003/08メディア: 単行本購入: 6人 クリック: 145回この商品を含むブログ (44件) を見る とくに興味を惹いたのが、第4章『存在と無』の哲学。「まなざしの問題」「対人関係の根本的なあり方としての相克」と題された部分である。サルトルによれば「他人のまなざしが向けられることによって、人間はモノに変えられてしまう」のだという。 私は今、かぎ穴から中をこっそりのぞいている。私は、まさに「我を忘れて」部屋の中を「見ている」。私はこのとき、世界に関わっている。ところが、突然廊下で物音が聞
ドイツのデュッセルドルフ出身のテクノ音楽ユニット、クラフトワーク/KRAFTWERK(クラフトヴェルク)のDVD『ミニマム-マキシマム/minimau - maximum』に夢中になっている。 ボクハ、ドイツ語盤ヲ、カッタヨ。ドイチュランド、バンザイ! ミニマム-マキシマム [DVD] アーティスト:クラフトワーク発売日: 2006/01/25メディア: DVD そのあまりにも即物的な機械音、まさに工業製品たる特殊な音楽に、胸が熱くなり、感動した。映像も──ライブにもかかわらず──直立不動のスーツを着た四人の男たちの微動だにしない四肢に、眼が離せない。 KRAFTWERK は「発電所」を意味するのだと言う。ドイツのルール地方の工業都市を、そのままイメージさせる、有機的組織体──Organisation/オルガニザツィオーンだ。 ダカラ、ホントハ、「クラフトヴェルク」ト独語フ
先日、「天神茄子:フランス語の砂漠」さんのところで「デリダの遺稿はどこへ?」という記事を読んで、ジャック・デリダの「遺産」をめぐって訴訟騒ぎが起きていたことを知った。いかにもデリダらしからぬ/デリダらしい transaction ではないか、と検索してみたら、日本語でも報じられていた。 仏現代思想の大家、デリダ氏の「遺産」の行方は? 遺族と勤務大学がトラブル [イザ!] デリダ氏は、1986年から2003年まで、カリフォルニア大アーバイン校で非常勤の講師を務めていた。90年には自筆の文書やメモなどの資料を同大に引き渡すことで合意していた。 デリダ氏というネームバリューゆえか、受け入れに向けた大学側の態勢には力が入っていた。パリ郊外のデリダ氏宅にコピー機を運び込んだ上、フランス語ができる研究者を常駐させ、資料の分類にあたらせた。 ところが、デリダ氏は次第に、カリフォルニア大に不信感を持つよう
aburaxさんという方が、 「ボーイズラブ」にはまる「少女」たち という記事で僕の「やおい」に関するエントリーを引用してトラックバックをくれたそうなので、そのエントリーをまとめておきたい。というのも「「やおい」は異性愛の症候である」が最近ブックマークされたが、これは、実は、続きもののエントリーの一部であって、「言いたいこと」はこれだけじゃないんだな、という気がするからだ(それと僕は「倒錯」という言葉は、「他人」に対して使う場合、それは「差別語」=人権侵害だと認識していることをあえて付け加えておきたい)。 以下にその関連エントリーをまとめて転載する。 ■異性愛の特権的シニフィアン、つまり異性愛(者)の喜劇=やおい 精神分析は何をしたというのか。何よりも、フロイトは何をしたというのか。小さい秘密を公のものとし、それを公然の秘密とする医学的手段《つまり、精神分析のオイディプス概念》を見いだすこ
グールドは不可能ななにかを探求していた。それを彼は<ゴールドベルク変奏曲>に即して音楽の「非実体化」と呼んでいる。 ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』(千葉文夫 訳、筑摩書房) p.145 1955年6月、ニューヨークのCBSスタジオで録音されたグレン・グールド(Glenn Gould、1932-1982)のデビューアルバム『ゴルトベルク変奏曲/Goldberg Variations』。 ピアノ音楽を愛する人なら、多分、この「録音」は──それがCDであれLPレコードであれカセットテープであれ、そういったメディアに関わらず──持っているだろう。 バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年モノラル録音) アーティスト:グールド(グレン)発売日: 2004/11/17メディア: CD このJ.S.バッハの傑作の、その第一のディスク(録音)に挙げられる「55年のゴールドベルク」
「女は男の症候である」というのは、後期ラカンの最も悪名高い「反フェミニズム的」テーゼのひとつだろう。しかし、われわれがこのテーゼをいかに読むべきかについては根本的な両義性がある。この両義性はラカン理論内部における症候の概念の変化を反映している。もし症候を、ラカンが一九五〇年代に定義したようなもの──暗号化されたメッセージ──として捉えるならば、もちろん女=症候は記号として、男の敗北の具体化としてあらわれ、男が「自分の欲望に負けた」という事実を証明する。フロイトにいわせれば症候は妥協の産物である。主体は症候において、自分の欲望についての真理(彼が直視できなかった真理、彼が裏切った心理)を、暗号化された判読不能なメッセージとして受け取る。 スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房) 「同性愛関係はない」異性愛物語=「やおい」が、とくに同性愛者を不快にさせるのは、<言語>を通
ビクター・オストロフスキー&クレア・ホイ著『モサド情報員の告白』(By way of deception、TBSブリタニカ)。イスラエルの情報機関モサド*1の元オフィサーが書いたノンフィクションで、1991年の発売当時、イスラエル当局がこの本の出版差止請求を起こし、それがいったん認められた後、出版社側の逆提訴によってニューヨーク州最高裁判所が先の判決が憲法違反に当たるとして逆転判決を下した経緯を持つ。その騒ぎもあって、その騒ぎゆえに、この本は(当然)ベストセラーになった。 By Way of Deception 作者: Victor Ostrovsky,Claire Hoy出版社/メーカー: St Martins Pr発売日: 1991/05/01メディア: ペーパーバック クリック: 6回この商品を含むブログ (1件) を見る その第四章「勧誘工作の手口」。オストロフスキーは、情報収集の
ローマ教皇ベネディクト16世のイスラム聖戦批判発言に関する記事。 イスラム世界、一斉に反発 ローマ法王発言 [goo ニュース/共同通信] ローマ法王ベネディクト16世がイスラム教の「ジハード(聖戦)」を批判したとしてパキスタン下院が15日、全会一致で法王の発言を批判する決議を採択、エジプトに拠点を置くイスラム原理主義組織が法王に謝罪を要求するなど、イスラム世界に反発が一斉に広がっている。 法王は12日のドイツでの演説で、聖戦で信仰を広めるイスラムの教えは「邪悪で残酷」と評したビザンチン帝国皇帝の発言を引用。「原理主義は(イスラム教預言者)ムハンマドの教えに反する」として、テロを行うイスラム原理主義者の宗教的根拠を否定した。 ローマ法王の聖戦批判発言とは? 要約 [goo ニュース] 「皇帝は、自らの考えをこうして力説した後、暴力による布教がなぜ理性に反するのか、その理由を詳細に論じ始める
世に、名曲や名演奏を紹介する類の音楽入門書は溢れている。が、それって、結局、「私の好きな作品や演奏について」の本なのではないか。ネット上においてもまたしかり。熱の篭った楽曲紹介、演奏記録ってのは、「それほど私はこれが好きなんです」という所信表明でないか。 「好き」というキーワードでテクストが書けるなら、では、「嫌い」ではどうか。これが意外にない。というか、それを説得力を持って理路整然と表現し──しかもそれで「共感を得る」のは結構難しい。 なぜその音楽が嫌いなのか。ごく単純にいえば、大脳のなかで、海馬から提供された情報を扁桃体がそう判断した、それだけにすぎないことだ。 鈴木淳史『わたしの嫌いなクラシック』(洋泉社)p.11 この鈴木淳史『わたしの嫌いなクラシック』は、「嫌い」という「キーワード」で、クラシック音楽を紹介する。扱われているのは、誰も知らない作曲家やその作品、箸にも棒にも引っ掛か
id:yskszk氏の定義からすると「認められない」だろうが、「市井の人」である僕は、週末の休日ぐらいしかきちんとしたエントリーを書く余裕がない。しかも文筆家と違って、思っていることを言語化するのに非道く難儀する。だから他の人の「語られかた」がとても参考になる。 「川原泉問題」は、2ちゃんねるの「哲学板」でも語られている──川原問題というよりも「yskszk問題」であるようだが。 ここでは、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」が引き合いに出され、yskszk氏の発言について論じられているのだが、以下のコメントは僕の思っていることを明晰に言語化してくれているので、引用させていただく。 77 :考える名無しさん :2006/08/20(日) 08:58:56 >>76 一番肝心なのは、同性愛者を蛇に喩えることで「彼らは我々市井の人とは違う存在である」 というコノテーションを与えていること
凄いのは、ウィキペディアの「オンド・マルトノ」の解説。是非ご覧あれ。 オンド・マルトノ [Wikipedia Ja] もう<神>だよ。英語版どころか独語版、仏語版も遥かに凌ぐこの情報量。 オリヴィエ・メシアンの『トゥランガリーラ交響曲』をはじめ、アンドレ・ジョリヴェ、アルテュール・オネゲル、マルセル・ランドフスキ、トリスタン・ミュライユ、さらには映画音楽にも触れている。素晴らしい。 とくにメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』(1948)は、僕の大好きな楽曲のひとつで、以前いろいろなCDを聴きくらべたことがある。 MESSIAEN 〔TURANGALILA-SYMPHONIE〕 「トゥーランガリラ」とはサンスクリット語に由来するもので、メシアンによると、それは愛の歌を意味すると同時に、歓び・時・運動・リズム・生と死への讃歌でもあるということだ。しかもその「愛」は小市民的喜びや昔の律儀な人たち
ここ数日の職場でのランチの話題は、ジダンの「頭突き」と元アイドル歌手、甲斐智枝美の自殺に尽きるのではないだろうか。「なぜ/どうして」という緒言から「そうだよね」という了承でもって45分間のビジネス・コミュニケーションは終了する。 「なぜだって? たんに当人が望んだからだ」とフーコーが自殺について書いた文章『かくも単純な悦び』を、僕はそのとき披瀝しなかった。なのでここに書く。 『かくも単純な悦び』は、フランスのゲイ雑誌『ゲ・ピエ』(Le Gai Pied)に掲載されたもので、「同性愛者はしばしば自殺する」という精神医学(精神分析)的言説に対して、まずフーコーは絡む。「しばしば」なる語には、悦に入ってしまう、と。 すらりとしてか細く、あまりにも青白い頬をした青年たちを想像してみよう。もう一方の性の敷居をまたぐことができないような青年たち。彼らは、生涯を通じて、死の域に入っては、騒々しい音を立て
タイトルは、id:yskszk氏のエントリー「川原泉と同性愛」から拝借した。なぜならば、yskszk氏の指摘する「同じ構造」が以下のニュースでも見られるからだ。 皮膚病患者を「ミイラ」と中傷 SNSに書き込む [産経新聞] 岩手県内にある大学の元水泳部員の男子学生(20)が、アルバイト先の書店で顔や腕を包帯で覆った皮膚病患者の写真を隠し撮りし、インターネットに「ミイラが来店」などと中傷する書き込みを繰り返していたことが17日、分かった。同じ悩みを抱える患者らからの抗議メールを受け、水泳部のホームページが閉鎖に追い込まれたほか、大学側にも抗議が殺到。学生から事情を聴き、厳重注意を行ったという。 学生のバイト先の近くには、重度の皮膚病治療で名の知られる総合病院があり、撮影されたのは、そこに入院する患者の外出時の姿とみられる。大学側などによると、書き込みは7月9日に2度行われた。バイト先の書店を
以前「少女マンガと優性思想」や「ブリテン 『戦争レクイエム』」で示した、川原泉の差別の問題点。 この問題に関して、”それは「古い」作品だから”という弁解が通用しない状況が浮上した。最新作である『レナード現象には理由がある』においても、差別・人権侵害が繰り返されたのだ。 hana53 さんが詳細に論じている。 川原泉「真面目な人には裏がある」 [ハナログ] …と、これは編集がストップをかけるべきだったろうというあんまりなプロットも酷ければ、「BL小説をまとめて読んだから同性愛男性に対して寛容になった」(「レイプものAVを大量に見たからレイプ被害者の苦痛が理解できるようになった」というぐらいにトンチキな話のように思われます)と称しつつ、兄のパートナーの背後に「幻獣バジリスクが見える」と言ってみたり、「ホモ判定実験」なるものを面白半分に実施してみたりする偏見まみれのヒロインに対して、「同性愛に対
パリ南東部に市内で37基目の橋が完成した。そして初めて「女性の名」が付けられた。その名は……シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)。そう、『第二の性』で有名なフェミニスト、そしてジャン=ポール・サルトルのパートナーであった女性だ。 Paris bridge named after feminist [BBC NEWS] De Beauvoir - the lifelong companion of existentialist philosopher Jean Paul-Sartre - made a name for herself with the 1949 book The Second Sex. The bridge stretches 304 m (1,000ft) across the Seine near the Francois Mitterr
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