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買ってよかったもの
lucciora.hatenablog.com
ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。 前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。 きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。 …たとえ生きてる時代すら違っていたって? そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。 そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。 ストーリーを少し書く。 主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。 婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解
(ショーシャンクの空に) 時として、だれかのブログを読んでいて「生きること」自体について悩んだり、考えているブログを読むと、ついつい読み込んでしまう。 というのも、自分もそうしたことを考えるくせがあるからだろう…。 何故生きるのか?について考えるとき、わたしが思い出す映画のひとつが「ショーシャンクの空に」という映画だ。 「ショーシャンクの空に」は自分の人生観を大きく変えた作品だったと思う。 これは映画だ。けれど、このストーリーはわたしの心の中で本当に起きているストーリーなのだ、その時そう感じた。 死のうと思ったことはないけれど、全部が 消えてなくなれば良いとおもったことは何度もある。これが全部誰かの夢で、その夢が覚めたら自分も消えていたら…。とか。 けれど今私が思うのは、とにかくとりあえず生きていて欲しいと思う。 人生は長いし、あとで振り返ったら、自分のその時の状況はそんなに焦ったり責めた
五月に花は咲くけれど それは去年の花ではない 人はいくたび恋しても 最初のキッスはいちどきり (青い小径 竹久夢二) 映画の中の色のイメージから思いつく、さまざまな愛について つらつら思いつくままに書いています。 実はこの映画を観たのは、イタリアのミラノでした。 イタリアについたばかりで友達もいない冬のある日、 町のシネマクラブ?コミュニティサロン?のような場所で、 この映画がかかっていて、ひとりで観に行きました。 当然のことながら、まだ言葉も全然わからず、 くわしい意味はとれませんでした。 それでも、この映画はずっと印象に残りました。 青いパパイヤの香り、青といっても原題はverteなので、緑ですね。 日本では、みずみずしい緑色を青と呼びますね。 パパイヤのみずみずしい香りが感じられるような生き生きとした情景、 微細な光の美しさ、少女の邪気のない笑顔。 舞台は1951年ベトナム、サイゴン
前回万年筆について書きましたが、いつもより沢山の方が見に来てくださったようです。 万年筆好きな方、結構いるんですね。嬉しかったです。 これが私の1番お気に入りの万年筆です。 1940〜50年代のものだと思います。 名前はシェーファーバリアント。(だったと思うのですが…まちがっていたら、教えてください) まず、ボディーの色が気に入ってます。ビンテージ万年筆ファンのサイトpenheroで見ると「ペルシャンブルー」というカラーなのでしょうか…この色、私にはなにか懐かしい色なのです。 調べて見ると、ペルシャンブルーとは、もともとラピスラズリの色、紺青を指すらしいです。 ラピスラズリが大好きなので、今更ながら、このペンをひと目で気に入ったのも納得です。 キャップにあるシェーファーのトレードマークのホワイトドットもかわいい。 http://www.penhero.com/PenGallery/Shea
<p>今週のお題「自己紹介」</p> 普段使いの万年筆。 シェーファーの、たしか'60年代のものだと思ったのですが、名前を忘れてしまいました。…画像で調べるとインペリアルだったかな。 ペンの胴体と一体型のニブ(ペン先)は、硬めの書き心地で、スピーディにぐんぐん書きたいときに使います。 もう随分前に、万年筆と筆記具&アンティーク文具のお店で働いていたことがあります。ブックカフェも併設。 もともと文房具は大好きだったので、仕事自体は面白かったです。 万年筆を好きな方というのは、皆さん自分なりの思いとこだわりのある方たちが多いんですよね。 大抵は文字を書くことが好きな人が万年筆を探しに来るので、そういう方たちと色々なお話をするのも楽しかったです。 そんなわけで、当時は一生懸命、万年筆について勉強してました。一本一本の書き味や、持ち味、そしてビンテージ万年筆や、限定の万年筆。漆や蒔絵の万年筆。 万
自分を害する相手と戦わずして、自分の信念を貫くということ、それはどんなに難しい事だろう。 観音菩薩の生まれ変わりとされるダライ・ラマの人生は、この時代にあっても、わたしにはやはり神秘的なものに思える。 ダライ・ラマの言葉から、 他者"others"と自分との関わりについて、ガイドになるような言葉を3つ。 "Our prime purpose in this life is to help others. And if you can't help them, at least don't hurt them." この人生で私達がまずすべきこととは、他者を助ける事である。 だが、もしあなたにそれができないのなら、少なくとも彼等を傷つけてはならない。 (…少なくとも彼らを傷つけてはならない、というところがわたしは好きだ。 この世界には、簡単に人を傷つける人が多すぎるように思う。時として心がしわ
一粒の砂の中に世界を… ウイリアム・ブレイクの詩を昨日書きました。 それで思い出したけれど、 ひとつぶの…と云えばアンドレ・ジイドだったか、一粒の麦、落ちて死なずば… 「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、 死なば多くの実を結ぶべし」 新約聖書「ヨハネ伝」第12章 聖書のことばって本質をついていて、すごいなといつも思います。 『聖書』なのだから当然といえば当然ですが。笑 仏教的な思想観が好きですが、聖書はすごい。 よく思います。 この世で偉業をなす人もいますが、多くの人は無名でその人生を終えるでしょう。自分もまた… それでも、その人の家族や関わった人たちにとっては、その人は多分とくべつで大切な存在であったと思うし、代わる者などいないのだと。 生命をつないでいるということは、すでに多くの実を結んでいるということかもしれない。 anonymous・・・無名性ということ。 たまに
一粒の砂の中に世界を見 一輪の花に天国を見るには 君の手のひらで無限を握り 一瞬のうちに永遠をつかめ Auguries of Innocence : William Blake To see a World in a grain of sand, And a Heaven in a wild flower, Hold Infinity in the palm of your hand, And Eternity in an hour. ウィリアム・ブレイク詩集「ピカリング草稿」から「無垢の予兆」Auguries of Innocence(壺齋散人訳) 最近、この詩が頭のなかで浮遊していました。むかし母がくちずさんでいた詩。 同じようなタイトルの展覧会も、今やっているみたい。情報には疎いのですが、たまたま見つけました。 …いま、これは私たちにとって、大切なテーマの1つなのかもしれませんね。
手紙を書くのが好きです。 手紙をもらうのも、大好きです。 最近あまり、もらわないから淋しいですけど…自分もあまり書いていないんだから仕方ないですね。 電子メールだって、もらえば勿論うれしいけれど、 家の郵便受けに、ちょっと厚みのある封筒のざらっとした手触りだったり、 海外からのエアメール便を見ると、思わず軽くスキップしてしまいます。 封筒の手触りって、どうしてあんなに素敵なのかな。 このふくろの中に自分へのメッセージが折り畳まれて入っている。 たくさんの文字が、私だけに向かって、ひそかに話しかけてくる。 そのことが嬉しいのです。 だから私も、手紙を書くのは楽しみです。 万年筆に青いインクを充填して、コーヒーでも飲みながら、相手のことをつらつらと考えながら、幸せな時間を過ごします。 切手も相手のイメージに合わせて、特別なものを選んだりして。 ポストが赤いのは、手紙を入れるイメージとして、本当
流星ワゴン ーーやっとわかった。 信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。 信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、 未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだった。 ドラマにもなった重松清さんの小説。 小説というものを私はあまり読んでこなくて、どちらかというと 心理学・宗教学や、思想・エッセイなどが好きで読んできたけれど、 最近、歳のせいなのか…やっと小説が面白いと思うようになってきた。 それでも小説のなかの風景描写だったり、セリフだったりが、 自分の感覚に合わないとなんだか面倒になっていたのだけど、 重松清さんは、私にとってその辺りがとてもすんなり入ってくる作家なのだろう。 この小説では、積極的に死のう、と思うほどの気力もなくなった、 生きることに疲れはてた主人公が、夜の駅前のロータリーで 「死んでしまってもいいな…」と思うとこ
良寛と貞心尼の歌のやりとりを美しいと思う。 恋なのか、信仰心なのか。 ただ、ひたすら、どこまでもついていきたいと思う「絶対」な存在。 親鸞の法然への信もまた。 なかなか出逢えるものでもないけれど、 人生の導師とは、そんな気持ちを喚起する存在なのだろう。 アッシジに行ったとき、聖フランチェスコ教会を訪ねた。 そして聖フランチェスコの埋葬されている墓を見た。 キャンドルが灯され、とてもあたたかく、明るく感じる空間だった。 未だに多くの人がやってきて祈りを捧げていた。 そのあと、聖キアラ教会を訪ねた。 聖キアラの着ていた白い服が展示されていた。 キアラの服が思ったより大きかったのと、 絵に描かれたフランチェスコには小柄な印象を持っていたので、 キアラの方がフランチェスコよりも大柄だったのかな・・ などと当時の2人の姿について勝手な空想をふくらませていた。 教会やアッシジの佇まいは、かつて彼らが生
なんだか涼しい。昼間は暑かったのに、やはり秋だ。 今夜ふと思いだした。 バッハのマタイ受難曲の中の「主よ、この涙にかけて我を憐れみたまえ。」という曲を。 この曲がタルコフスキーの映画で流れたことを。 キリテ・カナワの声も良かったけど、映画のシーンとあいまって、 この曲に圧倒された。 人の心は結構深いと思うこともある。 意識していない部分まで含めばさらに深いだろう。 それでも人には、時として抱えきれないものがあるのは何故だろう。 やはり心はそんなに深くも広くもないからなのか。 それとも、自分でその広さや深さを解放しないからなのか。 押さえ込もうとしても、あふれてくるもの。 それなのに、それを分かち合える相手がいないのは苦痛だ。 分かち合える、というのも変かな。 受けとめてくれる、ということかな。 …告解の意味。 そんな時は、神のみが、自分をゆるし、 この苦しみの深さをみつめてくれるだろう、
松岡正剛さんの「外は良寛」を読んだ時のメモ。2007年の日記より。 良寛さんの歌「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」は生と死の表裏一体を思わせて、かつやさしく大好きな歌である。 あらためて良寛さんの書を見ていると、詩人の吉増剛造さんの文字を思い出した。一文字一文字から「音」の聞こえてきそうな文字、手毬をつきながら数をかぞえる良寛の声や息遣いを感じさせるような文字である・・。 本を読んでいると良寛さんの「淡雪」のようなイメージが浮かんでくる。心にかかった文章をメモしていきたい。 ……… 淡雪の中にたちたる三千大千世界 またその中にあわ雪ぞ降る 良寛の書に一番ふさわしい言葉は「フラジャイル」(fragile) という言葉だと思います。フラジャイルとかフラジリティという言葉はふつうは「弱々しい」といった意味です。(中略) しかし僕が考えているフラジャイルという感覚はもっと積極的なもので、もちろ
ひきつづき…『人生のほんとう』より 語りのレベル p172 私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。 これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。 あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑 池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。 いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。 けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。 つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、 私の言うことが矛盾していないことが分かります。 何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが わかるはずです。 ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。 つまり個人の某としての存在、あ
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