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夏の料理
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グレゴリオ暦の起源 現在私たちが使っている西暦はグレゴリオ暦と呼ばれる暦で、グレゴリオ暦はローマの将軍カエサルが設定したユリウス暦を改訂した暦です。しかし1年を365日とし、4年に1回閏日を挿入するという暦の基本的な枠組みはエジプト暦から取り入れたものでした。エジプト暦は、1ヵ月が全部30日に統一されており、最後に5日の付加日を付け加えるという美しいものでした。しかし現在の暦は 28日、30日、31日の月が不規則に並んでいます。しかも不思議なことは、閏日を挿入するのが年の終わりではなく、2月という中途半端な月です。なぜこのような変則的な暦になったのでしょうか。それにはローマの暦を見てみる必要があります。 古代ローマの長い歴史 ローマ建国神話:初代王ロムルスの誕生 ローマには有名な建国神話があります。ホメロスの叙事詩イリアスに登場する英雄アエネアスの後日談(ごじつだん)です。アエネアスは年老
ユークリッドの原論:線分の扱い 線分 AB 上に点 C を取ります。図K1-5-1。すると線分 AC は線分 AB の部分なので、公理 8 より 線分AB は線分 ACより大きい、AC < AB、となります。また、線分 AC に線分 CB をつないでできる線分 AC+CB は線分 AB とぴったり重なるので、AB = AC + CB となります。 ユークリッドの原論:角度の扱い 原論では角度を数値で表すことがありませんが、読者の皆さんは1周360°の角度をよく知っていると思いますから、以下では説明のためこれを用いることもあります。 O, A, B を直線上にない3点とします。線分 OA と OB からなる図形を角AOB といい ∠AOB と書きます。原論では2直角 (180°)とか4直角 (360°)といった特別な角度を角度として認めていませんが、本連載ではこれらも角度として認めることにし
原論の幾何学第1巻〜第4巻の大きな特徴は、角度、長さ、面積、体積などを数値として扱っていないことです。これらは量として扱います。原論の第7巻になってやっと自然数がでてきます。比が最初に現われるのは第5巻、相似が現われるのは第6巻、数が現われるのはやっと第7巻になってからです。第1~4巻の幾何学はこれらの概念を使わずに展開されています。 数学とは元来、数を対象とした学問として発達してきました。現代数学では数以外のものも扱うようになってきましたし、実数以外にもいろいろな数を扱うようになってきました。これらの扱いは、原論の量の扱いにとてもよく似ています。ギリシアの数学を正しく知るためにも、また数学における数の発展を知る上においても、原論の量の扱いを知ることはとても有用だと思います。 ユークリッド『原論』に出てくる9つの公理 「ギリシアの幾何学は対象が図形なので直観的に分かりやすい」、「現代数学と
5つの公準 『原論』の第I巻では、前回述べた定義のあと、次の 5つの公準と9つの公理が続きます。まずは5つの公準をみてみましょう。 ユークリッド『原論』:5つの公準 公準 1任意の2点が与えられたとき、それらを端点とする線分を引くことができる。 公準 2与えられた線分はどちら側にでも、いくらでも延長することができる。 公準 3与えられ任意の点に対し、その点を中心として任意の半径の円を描くことができる。 公準 4すべての直角は互いに等しい。 公準 5ある直線が他の2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さいならば、この2直線は限りなく延長された時、内角の和が2直角より小さい側で交わる。 公準は“要請”と訳されることがあります。特に公準 1, 2, 3 は“要請”の方が、意味がはっきりするように思います。スポーツや2人で行うゲームの規則のようなもので、作図における許される操作です。「
ユークリッドの原論とは? 数学史上最も多くの人に読まれた本『原論』 ユークリッドの原論以上に世界中の人に読まれた本は「聖書」くらいのものだ、と言われるぐらい近世になるまで原論は広く読まれていました。実際、ヨーロッパの中世から近世にいたるまで、数学者はほとんどの人が原論を読んでいましたし、大学での教科書も原論でした。また、当時の特権階級には数学愛好者がいて、多くの人が原論を読んでいたようです。 原論の主眼は“事実”ではなく“証明”にある ここでは原論の特徴をごく大まかに紹介したいと思います。原論の主眼とするものは、各命題が表している“事実”ではなく、なぜその命題が正しいのかを示す“証明”なのです。例えば、原論の中にはピタゴラスの定理についての証明がでてきます。ピタゴラスの定理には、現在までに何百という証明が考えられてきています。ガウス※などの数学者もいくつもの証明を考えています。もうすでに正
現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦といい、ユリウス暦を改良したものです。この暦がどのような状況下で生まれたのか、なぜユリウス暦を改良しなければならなかったのかを調べてみましょう。 ヨーロッパの急速な発展 オリエントの影響 グレゴリオ暦が設定された16世紀は、暗い暗黒の中世を抜け出し、ヨーロッパが大きく発展しようとしているときでした。1500年以前のヨーロッパは、人口が推計8000万人程度で、大多数の民衆は貧しく文化も遅れていました。ところが300年後の1800年には人口は 1億9000万人と2倍以上に増え、経済力も増し、文化的社会的構造がガラッと変わってしまいます。 1500年以前のヨーロッパは、広い領域を占める政体はフランス王国とイングランド王国ぐらいのもので、500ほどの政体が入り乱れて争っていて、現在私たちが思い描いているのとはまったく違った姿でした。当時オリエントはイスラーム世
メトン周期とは、暦の19年を235朔望月とする周期で、19年に7回の閏月を挿入する暦法です。これは古代ギリシアの天文学者メトンによって発見されたと言われています。今回はこれについて詳しく調べてみましょう。 古代では小数をどのように扱ったか 1年の日数、1ヶ月の日数 “数“の概念は「物を数えること」から生まれました。人類は太古の昔から日数を数えていました。しかし、1年の日数、1ヵ月の日数は自然数ではありません。次は本連載中に何度か出てきましたが現代のデータです。 1太陽年 = 365.2422日 (1) 1朔望月 = 29.53059日 (2) 小数は高級な概念で、これを扱うには“数学力”が必要です。このお話では、古代の人がこのような数値をどのように扱ったかを見てみましょう。 古代の暦:月の満ち欠け 古代の暦は月を基準にしていました。『旧約聖書』の詩篇の中にも、「エホバは月を作りて時
数の発達と暦 Web連載『数の発明』では 数の発明と数学の進歩 について述べてきました。農耕が始まり経済活動が活発になると、数が発明され数学が進歩し始めた、というのが有力な説です。もうひとつ、文明の重要な要素に暦(こよみ)があります。発達した社会生活を営むには暦が必須要素であり、暦の作成には天体の観測が必要です。天文学こそ人類にとっての最初の“科学”でした。暦(こよみ)は数の発達に大きな影響を与えています。たとえば、数を12ずつ束(たば)ねる12束法は、世界各地で見られますが、これは1年が12ヵ月であることが大きな要因の一つと思われます。また、時間や角度が 60進法なのは、バビロニアの天文観測からではないかと考えられています。人類が制定した制度の中で暦ほど文化に密接したものはなく、暦ほど文化を越えて広範に伝播したものはないだろうとも言われています。農耕と文字と同様、暦も古代オリエント世界の
知的所有権 時代によってものの考え方や習慣がずいぶん違ってきます。現代では「この事実は誰が発見した」といった“知的所有権”は重要で、特に学術的な著作においてはすでに知られている結果は誰によるものかを明確に述べる義務があります。しかしこれは現代の慣習で、古代も同じであったとは限りません。たとえば、前回のお話で述べた宇宙の天球モデルとか、「軽いものより重いものの方が早く落ちる」といった引力(重力)の問題もアリストテレスによるとされています。またその他ありとあらゆるものがアリストテレスに帰されています。アリストテレスは古代ギリシアの英知を代表する人物ですから、なんでもアリストテレスの業績にしたのであって、実際発見したのが誰であったかにはあまり関心がなかったのではないかと思われます。 先取権をめぐる争い ニュートンは批判に対して神経過敏で、繊細で傷つきやすい性格でしたが、そのためか、たびたび激しい
ニュートンは有名人ですから多くの伝記が書かれてきました。これまでの伝記の多くは“偉人伝”で、親類とか親しい友人、ニュートンの場合は教え子などからの聞き込みによるもので、美化され必ずしも本人の実情を伝えるものではありません。現在の法廷では“伝聞証拠”といい、証拠能力があまりありません。しかしニュートンは膨大な数の文書を残しています。ちょっとした計算や覚え書きなどもノートに記していて、これらは客観的証拠となります。ニュートンの死後、これらの遺稿の詰まった箱を調べた主教は、その内容があまりにも異端的で悪魔的だったため、あわてて箱を閉じたといいます。これらの文書は近親者から委託されたポーツマス伯爵家が代々保管してきましたが、1936年に競売にかけられます。資料の散逸を恐れた経済学者ケインズとユダヤ人学者ヤフダが落札し、これらは現在ケンブリッジ大学とイスラエルの図書館に所蔵されています。ニュートンの
万有引力の発見者ニュートンのエピソードとして 「ニュートン はりんごが木から落ちるのを見て、万有引力を発見した」というお話は有名です。また、ニュートン は万有引力の発見、微積分の発明、光学理論などの偉業を成し遂げていますが、これらの発明や発見は疫病が流行した約2年の間に得られていたとされ、この期間は「驚異の年」と呼ばれています。広く知られているこれらの伝説について深掘りしてみましょう。 ニュートン の生い立ち ニュートン誕生 ニュートンが生まれたころに戻りましょう。この時代、ヨーロッパの国々はどこでも、戦乱に次ぐ戦乱で死は日常でした。現在の皆さんは平和な社会で生活していますから、当時の恐ろしい恐怖に満ちた日常は想像できないと思います。魔女裁判があり何の罪もない人が拷問の上公開処刑されます。斬首、首つり、火炙りなど頻繁に行われていました。ニュートンの父はこの混乱の中、ニュートンが生まれる3ヵ
17世紀は“科学革命の時代”とも呼ばれ、西欧の人々にとって、世界史における近世の起源と位置付けるものとなっています。産業をはじめとする文明の基盤は科学の発達に支えられ、中国、インド、中東などの文明圏をはるかに凌駕していきます。現在の科学技術の時代、コンピュータ万能の時代にまでつながる「西欧の優位」を確立した時代でもあったのです。ニュートンは科学革命の立役者で、間違いなく三大数学者の一人といえるでしょう。ニュートンの出現によって、数学も大きく変わります。それまでの幾何学的思考様式が代数的思考様式へと変わるのです。 歴史をみる見方は、時代によって大きく変化します。20世紀と21世紀でもすでに違っているのです。数学は普遍的事実を述べるのだから、時代には関係ないだろう、と思われがちですが、そうではないのです。本サイトではこれまで“古代の数学”について述べてきました。ここで、数学が大きな転換期を迎え
ローマ帝国時代のキリスト教 ユリウス暦、元年の制定 ローマ帝国時代のエジプトを見てみましょう。当時のローマは、ヨーロッパ、北アフリカ、オリエンを支配する大帝国となっていましたが、文化的にはギリシアやオリエントに多くを負っていました。古代では国の行う行事として、祭事が最も重要で、祭事は暦に従って頻繁に行われていました。アレクサンドリアには暦算家と呼ばれる暦の専門家がいて暦の編纂や祭事の決定を行っていました。カエサル(ユリウス)がユリウス暦を設定してから300年ほど経ったディオクレティアヌス帝の頃、暦算家たちは当時の暦には紀元が定まっていないことに気がつきます。暦算家の考えでは、天地創造の年は新月と共に始まったはずであり、調べてみるとディオクレティアヌス帝即位の年の1月1日は新月でした。そこでディオクレティアヌス帝の即位の年(西暦284年)を元年としました。 キリスト教が広がる以前のローマ…ミ
科学の発展と数学 数学が役に立つようになったのは、17世紀の終わりごろから西ヨーロッパで始まった科学革命の時代からで、西ヨーロッパが未曾有の発展を遂げたのに数学が大きくかかわっています。さらに20世紀後半から始まったコンピュータの発達により、今では数学は社会にとってなくてはならないものとなっています。おそらく皆さんの中の大多数の人にとって、数学をする目的は、中学、高校、大学などの入試のため、あるいは企業に入って役立てるためではないかと思います。おそらく現代では、“数学が楽しい”と思っている人はよほどの変わり者なのかもしれません。 論証数学の萌芽は古代ギリシア古典期に生まれた 古典期 古代ギリシア人が“実用には役に立たない”といいながらも情熱をもって構築した幾何学とはどんな学問だったのでしょうか。どのような時代背景のもとで、なぜギリシアは幾何学を生み出すことができたのでしょうか。まず、簡単に
割り算とは何か? 速算術の秘訣:5倍や25倍の計算を簡単に行う方法とは? むかしは速算術といって計算を簡単に行う方法がたくさんありました。現在は電卓があるので、皆さんはこのような方法をあまりご存じないかもしれません。たとえば、5倍するのは「10倍して2で割る」、25倍は「100倍して4で割る」など。少しやってみましょう。 26×5 = 260÷2 =130, 26×25 = 2600÷4 = 1300÷2 = 650 古代の人は「2で割る」操作は得意でした。また割り算も、「5で割る=2倍して10で割る」、「25で割る=4倍して100で割る」と計算できます。 26÷5 = 52÷10 = 5.2, 26÷25 = 52×2÷100 = 1.04 10 には1 と 10 を除くと約数は 2 と 5 だけですが、 60 の約数は 1, 2, 3, 4, 5, 6, 10, 12, 15, 20,
前回のお話〔8.バビロニアの小数〕で述べたように、バビロニア人は1より小さい数としての小数という概念を持っていました。バビロニアの60進小数とはどのようなものだったのでしょうか? 60進数の記数法 いろいろな記数法 60進数の記数法にもいろいろなものがあります。本連載でもすでに、絵文字による方法、楔形数字による方法と、算用数字と漢数字による方法を述べました。今回、また別の記数法を導入します。実は60進法の記数法としては標準的なものがあり、他の著作ではよく使われているのですが、以下で使う記数法はそれとは違う本連載独自の表記法です。標準的な記数法については最後に述べます。 60進数とは、0~59 までの数を並べたものです。以下の表に60進数の4つの記数法を示します。絵文字、楔形文字、〔 7. 60進数の掛け算 〕で述べたこれまでの記数法、今回新しく導入するこれからの記数法の4つです。これらは記
バビロニア数学の驚異:小数の概念と平方根計算 バビロニア人は小数を知っていた!? バビロニア数学の驚くべきところは、この時代にすでに小数の概念を持っていたことです。粘土板に 小数点 を表記することはしませんでしたが、1より小さい数としての小数という概念を持っていました。それどころかこの小数を使って、平方根(例えば √2)の計算まで行っていたのです。 この小数という概念を獲得するのに、おそらく計算盤が役に立ったのだと思います。中国の計算盤は、古くは現在のソロバンではなく、マス目に区切られた板の上に算木と呼ばれる棒を置くものでしたが、原理は現在のソロバンと同じです。紀元前のだいぶ前から10進法が使われており、九九も使われていました。計算盤を用いると、数という概念が具体的な対象として頭の中で形作られます。「一の位」の左のマス目は「十の位」、「十の位」の左のマス目は「百の位」…、では「一の位」の右
楔形文字の発達:絵文字から楔形文字への位取り方式の移行 〔 4.バビロニアの60進法 〕で、シュメール人はすでに絵文字の段階で60進数を使っていたことを述べました。 図7.1に示すように、この絵文字の60進数は非位取り方式で、位が違うと使われる絵文字が違っていました。 シュメール人は位の位置を決めて数字を書くうちに、位によって記号を変える必要のないことに気がつきます。もともと 1 と 60 は大きさが違うだけでしたが、大きさを区別しなくても 位置でどちらかが判別できる ことに気がついたのです。 位取り方式の発明 です。 次第にシュメール人は粘土板に葦のペンで楔形文字を書き始めます。図7.2 に示す楔形文字では、1, 10, 60, 600, … に対応する楔形文字がそれぞれ存在し、位取り方式ではありません。絵文字が非位取り方式から位取り方式へ移行した時期は、絵文字から楔形文字への移行より早
数の計算盤:古代ギリシア・中世ヨーロッパ・日本のソロバン 本題の60進数の計算方法に入る前に、まずは中世ヨーロッパを見てみましょう。ローマ数字では、1 ~ 9 と10 ~ 90 は次のように書きます( 図6.1 )。 〔 1.たばね法 〕でも述べましたが、古代の人々は計算盤を使って計算を行なっていました。計算盤にはいろいろなタイプのものがあります。図6.2(a) はギリシアの計算盤(アバクス)、図6.2(b) は中世ヨーロッパで使われた計算盤(アバクス)です。図6.2(a) の計算盤では、右端の欄から順に、一, 五, 十, 五十, 百, 五百 の位を表します。 図6.2 (b) の計算盤では、計算玉を線上か、あるいは線と線の間に置きます。一番右の線は一の位、次の線が十の位、次が百、次が千の位です。線と線の間には計算玉を一個置くことができます。一番右の線と二番目の線の間は五、二番目と三番目の
数学における問題の多くは「ある表現をそれと等価な表現に変換する」問題に分類されます。これには「式の変形」などの計算能力が必要です。数学には論理的思考力も必要ですが、計算も必要です。計算能力を高めるには練習が必要です。ここでは、これまで述べてきた数の表現について復習し、 ある表現を別の等しい表現に変換する方法(記数法の を学びましょう。 記数法:位取り方式と位名方式 前回のお話では60進数について述べましたが、2進数、10進数、60進数、… というのは 数の種類を言っているのではありません。数の表現方法のことを言っているのです。自然数、有理数、実数、負の数、… などは数の種類ですが、小数とか分数は数の表現方法です。例えば0.25 と 1/4 は同じ有理数の異なる表現です。本当は、「10進数」という言い方は誤解を招きやすいので、「10進表現」に直した方がよいと思うのですが、「10進数」という言
シュメール人の発明:位取り方式とその起源 現在私たちが使っている 10進数は、前回のお話で述べた 位取り方式と呼ばれる画期的な記数法です。この10進数はインドで生まれ、アラビアに伝えられ、やがて12世紀にヨーロッパに伝えられます。しかしヨーロッパでは長い間この記数法は定着しませんでした。15世紀になると、イタリアを中心に少しずつ普及し始めます。「17世紀の科学革命は10進数がなければ成し遂げられなかった」と言われるぐらいこの記数法は評価されています。この記数法では記号の “0” が重要な働きをしますから、「 0の発見 」としても有名です。しかし、位取り記数法はインドよりもずっと前にバビロニアで発見されているのです。ただし、バビロニアの記数法は10進数ではなく60進数でした。 60進数の書かれた楔形文字の粘土板文書は、メソポタミアの遺跡に埋もれ長い間忘れさられていました。したがって、位取り方
位取り方式とは、数字の表れる位置によって位が定まる記数法のことです。本節ではソロバンや貨幣系を使ってわかりやすく説明します。 日本の記数法:10進数と位取り方式 現在私たちが使っている算用数字 0, 1, 2, …, 9 は、もともとはインドで生まれたようです。それがアラビアに伝わり、アラビアからヨーロッパに伝わりました。したがって、ヨーロッパの人たちはこれをアラビア数字と呼んでいました。しかし、最近ではこれがインド由来であることが認識されるようになり、インド・アラビア数字と呼ぶようになってきましたが、この名称は少し長いので本連載では昔のとおりに「アラビア数字」とか「算用数字」と呼ぶことにします。 本連載ではバビロニアの記数法を扱っていきますが、まず私たち日本人に馴染みのある日本の記数法から見てみましょう。説明のために現代の日本語の記数法を少し変更しています。私たちは、たとえば 321 を
記数法の起源と発展:線刻と文字表記 数を文字によって表す表し方を記数法といいます。石器人は獣骨に線を刻んで数を表しました。これを線刻と言います。記数法のはじまりです。旧石器時代は獣骨を用いましたが、その後、木の棒が用いられるようになります。ヨーロパではこの木の棒を符木(しるしぎ) (tally) と呼んでいます。中国では木簡(もっかん)といいますが、竹簡(ちっかん)も用いられました。メソポタミアにはよい木が生えていなかったため、粘土板が用いられました。 ローマ数字は線刻からきています。I, II, III は線刻そのものです。X はアルファベットの「エックス」ではなく I の10個の「束(たば)」を表す記号、つまり I を10個並べて、斜め線「 / 」でくくったものを記号化したものです。V も「ヴイ」ではなく X の上半分、つまり10 の半分の 5 を表します。漢字の一、二、三も線刻からき
数の表現方法:10進数、2進数、60進数とは 皆さんは子供のころから数に慣れ親しんでいますから、 数はもともとこの世界に存在しているもの と考えていると思います。現在の私たちは数を10進数で表していますが、実はこの記数法にたどりつくまでに人類はとても長い年月を費やしています。現在のコンピュータは2進数を使っていますし、バビロニアでは60進数を使っていました。数なんか簡単だと思っている人が、2進数とか60進数に出会うと、途端に難しく感じることがあります。これはなぜでしょうか。 10進数、2進数、60進数というのは数の種類ではなく、数の表現方法のことです。英語で one, two, three と言っても、日本語で 一、二、三 と言っても同じ数を表すのと同じです。本当は、10進表現、2進表現、60進表現というべきなのですが、慣例に従うことにします。皆さんは、「10進数を知っているから、いまさら
Web連載『バビロニアの数』公開中です! 皆さんはバビロニアという国をご存知でしょうか。むかし南メソポタミア地方に栄えた国で、今はありませんから知らない人も多いでしょう。皆さんにとっては、バビロニア文明というよりはメソポタミア文明と呼んだ方が通りがよいかもしれません。メソポタミアとは、ギリシア語に由来する語で「 2つの河川の間の土地 」を意味します。この2つの川とはチグリス 川とユーフラテス川のことで、現在のイラク共和国を中心とする地域がかつての古代メソポタミアの領域です。 メソポタミアの南部をバビロニア、北部をアッシリアといいます。バビロニアの中でも最南部のチグリス •ユーフラテス川下流地域をシュメール地方と呼んでいます。ここに、メソポタミアの最初の文明がシュメール人によって築かれました。その後この文明はバビロニア地方を越えて西アジア全域に伝播していき、メソポタミア文明となります。 本連
17世紀のガリレオ※やニュートン※による科学革命以来、人びとは科学の発展が産業にとって必要であり、私たちの生活を豊かにしてくれるものと考えるようになりました。現代では、宇宙科学だけではなく経済活動から医療行為にいたるまで人工知能が関与し、自動車のナビゲーションでは GPS を使用し、日常生活ではスマホやインターネットを使っています。現代の私たちは、数学は科学を学ぶ上の必須の言語であり、文明にとっての必須要素だと思っています。しかし16世紀までは数学は哲学の一部で、教養だったのです。商人や職人が使う計算は低俗な技芸であり、日常生活とは無関係の(ユークリッド※の幾何学のような)数学は人間性を高める高尚な学問と考えていました。現代の私たちは現代人の見方でしか物事を判断できません。古代とは生活環境がまったく違います。古代の人々は科学や数学をどのように捉えていたのでしょうか。なぜ、どのようにして人々
文明にとって、もっとも重要な必須要素はやはり文字と言えるでしょう。文字が生まれてから後の時代を、有史時代とか歴史時代といい、文字が生まれる前の時代を先史時代といいます。文字があれば記録が残り、史料となります。 今回は文字の発明に焦点を当て、歴史を紐解いてみましょう。 本連載では人間の思考について考えてきました。思考は言葉によってなされます。したがって、本当に重要な要素は言葉、すなわち言語かもしれません。しかし言語は文字化されなければ後に残りません。ですから先史時代の言語については確かなことはなにもいえず、推測にすぎません。旧石器時代、人びとは家族単位で行動していました。したがって言語もそれほど発達していなかったと思われます。家族内では言葉がなくても意思は通じますから。 言語が発達し始めたのは新石器時代になって人々が集住し始めてからではないかと思われます。新石器時代に入ると、世界の各地で多く
本連載の前半では人類の進化の歴史をたどり、ヒト属が猿人、原人、新人と進化の道を歩んできた様子を見ました。人類は栽培農耕と牧畜という新たな生きる手段を発見し、「知識の集積」による新たな進歩の時代へと入ります。進化の歴史は、600万年前から1万年前の旧石器時代の終焉までといった、100万年単位の変化でした。1万年前に農業革命が起こります。〔 詳しくはこちら▶︎ 8.農業革命 〕しかし“革命”といっても1千年単位の変化ですから、現代人の感覚からすると非常に緩やかなものでした。5千年前に都市革命が始まると、変化の加速度は急速に上がります。都市革命こそ文明の始まりでした。 今回は、猿人の時代から文明の前夜まで、人類が数をどのように扱ってきたかを見てみましょう。猿人の数に対する能力は、チンパンジーとほぼ同じだったのではないかと思われます。つまり猿人も生得的に(生まれながらにして)、10 程度の数の認識
農業革命: 文明の扉を開くはじまり 農業革命こそすべてのはじまりでした。集住、村落の発生、交易など文明のすべての芽は農業革命によって生まれました。人類は文明への扉を開けたのです。しかし実際の文明が生まれたのは農業が始まって5000年も経(た)った後(紀元前3000年頃から)なのです。この間まだ数学は現れていません。数学が生まれるためには文明という土壌が必要だったのです。 農業革命に関する記事はこちら▶︎〔8.農業革命〕 文明誕生の地:シュメール地方 シュメール地方: 文明の芽生える河川の地 農耕が始まったころの肥沃な三日月地帯※は現在とは比べものにならないほど豊かな土地でした。しかし文明が生まれたのはこの三日月地帯ではありません。以下では文明が生まれたシュメール地方に焦点を当てて述べましょう。 まず地理を復習しておきましょう。メソポタミアという語は古代ギリシア語で「2つの大河の間の地方」と
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