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TGS2024
nekojushoku.hatenablog.com
昔書いた雑文を少しずつここに載せていこうと思っています。 ――――――― 新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、仏教宗派は様々な声明を行った。曰く「仏の知恵に学ぼう」「差別しない、排除しない」「人間性の回復」「つながりの本来的な意味と大切さに気づく」など。仏教は、人類社会に有益な指針を提供できると思っているのだろう。 こんなことは過去にもあった。仏教者による戦争法案反対の集会では「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」との法句経の言葉が主張され、ポスターや横断幕にも大きく書かれていた。 しかし終了後の懇親会で楽しそうに酒を飲む彼らに、「不殺生」を言うのに「不飲酒」は良いんですかと聞くと鼻で笑われる。そして「殺してはならぬ」はすべての生き物に対してのことなのに、そこから動物の殺生の是非を問う人は、誰ひとりいない。 感染に関わる差別について、仏教の平等性からの問題提起もよく見た。しかしその一方で、
先月、スマホをXiaomiのRedmi Note 10 Proってのに乗り換えた。これはこれで大変満足している。安いし画面きれいだしカメラもいい。FeliCaが使えないのがちょっとネックかなと思っていたけど、愛用しているGarminのスマートウォッチでSuicaが使えるので問題ないです。 で、昨日法話に行ってたお寺の住職さんに、うぁあ新しいスマホ買ったんですね!Xiaomi?なんですかそれ。Androidですよね。iPhoneじゃなくて使いにくくないですか?みたいなことを一通り言われたのでありますが、昔だったらフンガーiPhoneが何じゃオレはAndroidのほうがいいんじゃ!!!ってムキになっていたけど、今はもうそんなことはしないです大人ですし。「まだiPhoneで消耗してるの?」みたいな謎の笑みを浮かべて乗り切りました。オレえらい。 それはいいとして、これって今どきのスマホなのでむっち
最近、陰謀論にかかわる相談を受ける。陰謀論はFacebookやTwitterなどのSNSを観ると頻繁に目にするが、私に寄せられるのは家族がそれにハマってしまったとの相談である。SNSではアンフォローするなりブロックするなりすれば実害はないが、家族となるとそうは行かない。まして、最近はコロナやワクチンについての陰謀論が目に付き、この陰謀論に染まった人を近くに抱えると、命に関わる問題ともなりうる。 私自身はカルト宗教についての相談を受け続けて15年になるが、この問題はカルトとかなり似ていると思う。その経験から今の思いをまとめてみた。 陰謀論者は不真面目ではない この課題から思い出すのは、2011年の福島第一原発の事故での経験である。当時私はまだ僧侶になりたてであったが、私のいた教団では、全く科学的な事実に基づかない、極端な放射線などの健康被害を語る人が多くいた。事故からの汚染が今後私達にどのよ
私は新宗教で講師をした後に、一般企業で働いて、僧侶になって入寺した、ちょっと異色な住職である。いわゆる「在家出身」と言うのだが、もともと私がいる浄土真宗は在家仏教なので僧侶は全員「在家出身」のはずである。しかし現実的には寺生まれでない僧侶にだけ「在家出身」とのレッテルがつく。まあこの辺は変だけどしょうがない部分なんだろう。 で、在家出身に対する差別とかありましたかと聞かれると、思い出してもあんまりないなぁとしか言いようがない。お寺で生活したことがなかったので慣れるのに時間はかかったし、先代の住職と一緒に生活して学ぶこともできなかったので、何も知らなくていろいろ恥をかいたことは事実だけど、それは差別とは言うまい。 無論、差別的に「彼は在家出身だから〇〇なんだ」と言われることもあったかも知れないが、そんなことはだいたい陰口で言われているだろうし、直接に聞くことはなかった。もちろん、直接に浴びせ
以前にプロテスタントの牧師が、「聖⭐︎お兄さん」という漫画に描かれるイエス像に大変な不快感を表していたのを見たことがある。確か、Twitterだった。 って思って検索したら案外簡単に見つかってしまった。 『聖⭐︎おにいさん』のNHKドラマをたまたま見かけた。「十字架背負って歩いてたときさ〜、じつはダルかったんだよねw」とキリストが言うのを聞いて憤りを覚えた。放送料払って侮辱の言葉を聞くとは。二度と見なかった。もちろん作者や俳優の誰にも恨みはなく、冒涜に憤りを覚えただけである。 — 沼田和也(王子北教会牧師)noteは https://note.mu/numatakazuya (@numatakazuya) 2019年10月18日 私は、この漫画を少しだけ読んだことがあり、案外正確な仏陀の描写に感心した記憶があるのだが、許せない人もいることは容易に想像できた。宗教ってのはそういうものなのだ。
前回、「即興法話」についての意見(いや、批判と言ったほうがいいかも知れない)を書いたら、意外なことに随分反響をもらってしまった。 なぜ意外かというと、このブログは何しろ一日数アクセスくらいしかないので、多くの人に広めたくはないけど、自分がどうしても書きたいことを書くために使っていたから。かといって匿名は卑怯な感じがするので実名にしている。随分と歪んだ動機のブログだと思う。 そして案の定、よくぞ言ってくれたとの反響もあれば、どうしてそんな事を言うんだ、頑張ってるんだから暖かく見守ってあげたらいいじゃないか、といった反響も頂いた。 中でも、私が自分の思っている「正しい法話」以外は許さない人間で、そうじゃない法話をさばいているのではないかとの声もあった。以前にシネマ法話(知りたい人は適当に検索してほしい)を批判したこともあり、自分が正しいと思っている法話以外を厳しく批判する人間、との印象が出来上
こんな記事を見た。 luhana-enigma.hatenablog.com 私もこの「即興法話」を見たことがある。同じように悲しくなった。どうしてそう思うのか、自分の今の思いを書いてみることにする。ここは読者が極端に少ないので、頑張ってこの法話形式に取り組んでいる人たちに水を差すことにはなりにくいだろうし、書いておけば必要な人には届くだろう。 断っておくが、私自身は人の法話をあれこれ評価できる立場のものではない。ただ、18歳のときから仏教を聞き続け、23歳のときから24年間法話をしてきたので、経験だけはそれなりにある。何千回と話してきた。逆に言えば、私が法話を語ることのできる根拠は、それしかない。 即興法話とは、「お題」としていくつかの単語をもらって、それを使って即興で法話するもの。落語の三題噺の法話版である。聞きたい人はYoutubeで検索したらいくつか出てくるので、それを聞いてもらえ
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