サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
災害への備え
shogi-daichan.seesaa.net
今週の週刊将棋の特集を読んで、目から鱗が落ちた部分がある。要約すると、「駒を落として下手を有利にしておきながら、あえて上手が先に指す(=上手を有利にする)のはなぜなのか」という疑問。「駒落ちは上手が先に指すもの」と覚えてはや20年、そんなことを疑問に感じたことは一度もなかった(と思う)のでびっくりした。たしかにもっともな疑問である。 考えてみると将棋のハンデ戦というものにはいろいろとナゾが多い。たとえば、香落ちと角落ちの差は大きすぎないだろうか?なぜ金銀を落とす手合いは存在しないのか?そもそも駒を落とす以外のハンデは考えられないのか?・・・などなど。素朴な疑問すぎて、答えはもちろん用意していない。まだまだ実験が足りないのだろう。 駒落ちというものは、プロにとってはあくまでも指導用のものであって、根を詰めて研究するような類のものではない。それはプロの世界がすべて平手であることが、大いに関係し
最近プロ将棋の「型」というものが、いままで以上になくなってきていることを強く感じる。そしてそれは、より本質的な意味において、将棋というゲームの原理に近づいているのではないかと思えてならない。 「どうぶつしょうぎ」のヒットは、より少ない枚数・より弱い種類の駒たちによっても、(本)将棋に近いゲームになりうる可能性を示唆した。その奥行きが最終的にどの程度あるかは今後の研究を待つとしても、少なくともいまの自分には、具体的な解は得られていない。あの狭い空間でそれだけの奥があることには驚く。 どうぶつしょうぎにはまだ定跡のようなものは整備されていないはずだから、頼りになるのは自分の「読み」だけである。見たこともない局面を前に、「こう行く、こう来る」という読みを繰り返していくしかない。しかるに普通の将棋だとどうなのだろう。 将棋は長い歴史の中で、たくさんのセオリーが整備されてきた。その多くは「戦法」とな
本稿を読む前に、できればこちらに目を通していただきたい。「コンピュータが人間より強くなってしまったとき、将棋界はどうなるか」というテーマで、かなり読み応えのある分析がなされている。小部屋のほうでも紹介したが、こういう外部の方の論考がこうして普通に出てくることが、インターネットという社会の特質なのだろう。この「その後の世界」について、いまの自分の考えを述べておきたい。 この稿は数年後、あのときはどのように考えていたのかと振り返るときが、きっと来るだろう。それが楽しみでもあり、不安でもある。できれば明るい未来から、過去を振り返ってみたいものだと思う。 前回書いたように、現在の僕は、近いうちに、少なくとも自分が現役でいるうちには、コンピュータに勝てなくなる日が来るだろうと考えている。そのとき将棋というものはどうなるか、プロの世界というのはどうなるのか。正直想像もつかないが、遠くない将来、 将棋を
いやはや驚いた。ボナンザの強さに、である。正直言ってあそこまでとは思わなかった。将棋の「強さ」というのはある程度の棋力がないと分からないものだろうから、多くの方は実感はわかないと思う。しかし一方で、多くの関係者は本当に驚いたに違いない。 正直なところ僕の最近の関心は、自分の昇級と女流棋士の問題がほとんどで、このイベントのことはすっかり忘れていた。世間の関心を集めるのも、いますこし先のことだと思っていた。しかしいざ将棋を見て、いま書いておかないと機会を逸すると思ったので、たいした知識もないのにこうして取り急ぎ書いている次第。今回はプロ棋士の視点ではあるものの、一方では全くの素人の見解でもあるということを念頭に置いて読んでほしい。 僕が奨励会初段前後の、中学生の頃のことだったと思うが、チェスの世界チャンピオン・カスパロフがディープ・ブルーというコンピュータに負けた。僕にとっては遠い海の向こうの
2月は銀河戦で都合3度、テレビに出させていただいています。小部屋のほうでは収録日と放映日の時差の問題について触れ、いくつかご意見をいただきました。結論としては、「結果を知らないほうが楽しめる」という意見が多かったようです。 この問題も大切なことですが、実はテレビ棋戦に関しては以前から、より大きな問題だと思っていることがありました。それは「感想戦」です。ちょうど良い機会なので、今月はテレビ棋戦の感想戦について述べてみたいと思います。 将棋のテレビ放映において一番難しいのは、いつ終わるか、どのぐらい時間がかかるかが、わからないことではないかと思う。現在将棋界のビッグタイトルである竜王戦・名人戦では衛星放送による中継が行われているが、終局前後の時間帯を映してほしいというファンの声はいつも耳にする。しかしそれがいつになるかというのは、1時間程度の幅をもってしても正確に予想するのは難しい。そういうわ
歴史的名著だと思う。 再読であることを気づかずに再読して、そうとは知らずに興奮して、どうしてもブログを更新したくなった。 しかしどう考えてもいまの小部屋のテンションではないと思うし、限定公開のSNS内ではちょっともったいない。 しょうがないので、ひっそりとこちらを掘り起こしてみる。 僕はこの数年、本を読むときは必ず折り目をつけて、あとでまとめてその部分を書き留めておくことにしている。 折れれば折れるほどいい本。一か所も折れない本に出合うことはさすがに少ないけど、たまにあると本当にがっかりする。 この本はあまりにも折れたところが多すぎて、書き取りに一時間ぐらいかかってしまった。 ところで「羽生」と言えば同名の文庫本が手元にあった。 その内容はよく覚えていなかったが、手元に残っているということはいい本だ。 ただウェブ上で僕が偶然見かけた紹介は単行本だし、サブタイトルもまるで違うものだった。 発
この時期にブログを始めたのは全くの偶然だったのですが、このタイミングで大きなニュースが飛び込んできたことには、何か縁のようなものも感じます。この件に関して、僕の現時点までの見解をまとめておきます。 「女流棋士」というものについて僕がある程度の知識を得たのは、たしか女流棋士発足30周年のパーティーが行われた前後だったと思う。いまから3年ほど前のことで、自分がちょうど四段になった頃のことでもある。やはり奨励会員ではわからないことも多かったのだと思う。 このブログにたどりつくまでに、ほとんどの人が「正会員でない」という言葉を目にしたと思うが、このことの意味が自分がそうなるまではなかなかわからなかった。記事を目にした一般の方の多くは「それで結局、女流棋士というのはプロなの、そうでないの?」という疑問を抱いたと推測するが、まさに彼女たちはプロであってそうでないような、複雑な立ち位置なのである。このこ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『daichan's opinion』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く