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昔から多くの政治家や政府関係者が回答に窮すると頻繁に使用する常套句として,「仮定の質問には答えられない」というものがあります。最近では,日本大学アメリカンフットボール部のタックル問題での前監督らの記者会見でも,司会者がこの常套句を使っていました。 しかし,なぜ仮定の質問に答えられない(答えない)のか,その理由(正当性)はよく分かりません。別に,仮定の質問というだけで,それが論理的におかしいわけでも,回答不能であるわけでも,議論のルールとして禁止されているわけでもありません。それにもかかわらず,多くの野党議員や記者は,「仮定の質問には答えられない」と返答されると,それが当然であるかの如く,簡単に引き下がってしまいます。それが不思議でなりません。 「事実の問題」と「見解の問題」との違い このようなことが平然とまかり通っているのは,質問者側が「事実の問題」と「見解の問題」との違いを明確に意識して
最近は(昔からかもしれませんが),差別的あるいは反道徳的と捉えられかねない言論があると,マスコミ等が挙って一斉にその言論を叩き,さらにはその言論とは無関係な発言者の人格に対する攻撃・非難まで加えるのをよく見聞します。その言論の趣旨を正しく捉えたうえで,きちんと理由を示して言論批判するのであればいいのですが,なかには,その言論の文脈を無視し,一部の言葉を抜き出して言論の趣旨を勝手に曲解して非難するものも少なからず見られます。 差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論が許されるとは言いませんが,そのような言論もそれなりの理由に基づいている場合もありますし,また,言論の趣旨が正しく伝わっておらず誤解されている場合もあるかもしれません。その言論の発言者は,自らの正義感に基づいて発言しているでしょうから,頭ごなしに批判されても納得できず,批判者に対し反感や憎悪を抱くだけです。大勢から集中攻撃を受けれ
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