政府の総合科学技術会議は、年間3000万円以上の国の研究資金を獲得する研究者に、一般向けの講演会や小中学校での出前授業などを事実上、義務化する方針を決めた。 「事業仕分け」などで科学研究の成果が見えにくいという批判が相次いだのを受け、第一線の研究者自らが啓発活動に取り組む制度を構築する。 講演や出前授業などの活動実績を研究プロジェクトの中間評価や事後評価の対象にする。該当する研究者は約3500人。研究者の負担を軽減するため、大学や研究機関には、地域との連携などの支援体制を取るよう求める。 今後、募集を始める研究費の公募要領に盛り込み、来年度から本格実施する。内閣府の津村啓介政務官(科学技術担当)は「科学技術のすそ野を広げ、予算を増やしていくには、国民とのコミュニケーションは避けられない」と話す。
ゴールデンウィークは、息子へのサービス週間。アリバイ作りのために、どこかに連れて行き、必ず写真を撮ることにしている。将来に「父親にはどこにも連れていってもらった記憶がない」発言を封鎖するためなのだ。今年は、5月3日に江戸博物館に行った。親は龍馬展に興味津々だったが息子の希望で常設展へ。5月4日は、科学博物館に行った。親としては大哺乳類展を覗いてみたかったが、息子の希望で常設展に。 科学博物館は、ちびっこたちで一杯だった。みんな嬉々として、計測器で遊び、霧箱の宇宙線に見入り、偏光板の映像を楽しんでいた。ぼく自身は、昨年に行ったときに気になった「連立方程式の求解をする手動機械」(九元連立方程式求解機-コンピュータ博物館)について、今年こそその原理を解明するぞ、という意気込みで解説を何度か眺めた。この機械は、糸と滑車と棒で出来ており、9元連立方程式まで解けるそうな。がんばって考えた甲斐があり、や
科学的合理性の判断と、政治的合理性の判断は、明確に分離すべきなのだろうね。 先日こんなエントリを読んだ。 リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground 似たような感想の人が他にもいたけれど、私のこのエントリに対する感想は、 ネタなのか本気なのか、天然なのか釣り針なのか判断に迷うなあ、というもの。 1.に概ね同意し、2.でお茶を吹き、3.でネタなのか本気なのか判断に迷ったというのが正直なところだろうか。 元エントリでは「科学」という言葉をかなり特殊な使い方をしているので、 自然科学系の人は多分ツッコミの一つや二つ入れたくなるだろうけれど、 問題意識そのものは多少分かるだけに、面白いとは思う。 とりあえずいくつか見ていこうか。 2.ナイーブな実証主義の問題点 残念ながら、いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論
こちらで指摘されてることなんですが、確かにウェブで見る民主党の科学政策は掲げる理想はいいとしても、ちょっと具体性に乏しすぎるといえるでしょう。作成が2002年になってるし*1。 この辺が科学技術政策の政治的優先順位の低さを如実に表しているんでしょうね。 ただ政党として観るならば、民主にしろ自民にしろ、議員レベルで科学技術研究の現場や政策に精通してる人ってのはほとんどいない。 自民なら尾身幸次氏や加藤紘一氏、民主なら鈴木寛氏あたりですかね。少なくとも長期的にコミットしてるのは。 自民党は文部科学省や経済産業省と共に、平成7年に施行された「科学技術基本法」に基づいてこの10年大学院拡充やポスドク1万人計画、大学法人化などいろいろとやってきたわけですが、その方針も現在いろいろとガタがきて、当の文科省すら博士定員の削減をいい始める状態です。 仮に民主党に好意的に見るとすれば、霞ヶ関という世界最大の
内閣府食品安全委員会の人事案を民主党など野党4党が参議院で否決したことに対し、科学界から批判が相次いでいる。 委員の候補者が4年前、輸入牛肉の安全性を判断した科学的評価を、「評価の姿勢に問題がある」として否決の理由にしたためだ。近く政権を握るかもしれない党からの政治的圧力に、科学者側は「中立的な評価が損なわれる」と危機感を強めている。 問題の人事案は、吉川泰弘・東京大教授を委員長含みで同委員に起用するもので、6月5日に否決された。吉川教授は2005年、同委員会のプリオン専門調査会座長として、米国・カナダ産牛肉の輸入再開を条件付きで認める答申案をまとめた。民主党は、調査会が「データに不明点が多く、厳密に評価するのは困難」としながら答申案をまとめた点などを問題視した。 しかし、食品安全委員会は、有害物質などがどのくらいの確率で悪影響を与えるかを科学的に評価する機関。日本学術会議の金沢一郎会長は
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というわけで、前のふたつのエントリから、科学の方法として妥当な線で主張を行っているのならば、まともな相対主義を改めて持ち込む必要がないという結論に至ったんだけど、納得してもらえたかどうかはちょっと不安。まあ、あんまり気にせず、相対主義に関するエントリの後編として、もっともよく見かけると思われる「行き過ぎた相対主義」について書くよ。 行き過ぎた相対主義 相対主義的な考え方をどこまでも推し進めると、「人間は絶対的な真実には到達できない。あらゆるものは相対的であるから、どのような主張も否定できない。」なんて考え方に陥っちゃうんだよね*1。絶対的な真実でなければ皆同じって考え方に繋がる。まさに糞でも味噌でも一緒にしちゃう主張だよね。糞味噌一緒問題は『はてなダイアリー』とか『Archives » ページが見つかりませんでした』が面白いかな*2。 現実から離れて、哲学的だったり論理的だったりする事しか
「科学が一種の宗教に思えてならない」なんて記事を読んだ。 科学が一種の宗教に思えてならない 元増田の言う「宗教」って何だろう?どんな共通点をもってして「宗教」と呼ぶのだろう。そもそも宗教同士の間でも、考え方は様々で「宗教」というジャンル分け自体が、議論には向いていない。相互理解が可能な程度に噛み砕いて共通点を語ってもらわないと「何を表現したいのか、さっぱりわからない」。 元増田の周りの人が「科学を信仰しているように見える」ってことかな? ここで私がちょっと引っかかったのは、「科学の進歩は人類の利益になる」と言うのが、当然のこととして考えられているという点。 うーん。当然なことだと考えている人ってそんなに多いのかな?科学はより良い生活を実現するために用いることができる。ここは疑いないんじゃないかな。そして、逆により悪い生活を実現するためにも用いることができる*1。 知ることによって、対処でき
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