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恋愛モノは人気ジャンルの一つでもあり、好きな人もたくさんいるだろう。 僕的にはほとんど読んだことがないジャンルなので、それをどうこういうのも少し憚られるのだが、自分なりに思うところもあるので、今日はそれについて少し書いてみたい。 まずそもそもなのだが、恋愛というのは、どんなジャンルであれ、というか人間がいる以上、必ずついて回るものだということである。 ファンタジーだろうが、ミステリーだろうが、SFだろうが、たいてい恋愛要素があり、それがキャラの個性を強め、物語をさらに面白くしていることが多い。 そう言う意味では恋愛ジャンルじゃなくとも、物語の中に恋愛要素を組み込んでいる人は相当いると思う。僕自身、物語の主だったキャラの中には必ず男女を入れるようにしている。それが恋愛に発展するかどうかは分からないが、常にそういう可能性を感じさせておきたいという意図があるからだ。 だが、実は恋愛というのはある
昨日、Mさんから、興味深い提案をいただきました。 「…… 『作者にお金を払わせて作品をアピールするシステム』を造れば良いと想うんですがねぇ。 カクヨム的にも「美味しい」ですし、真剣に書いてるかいい加減に書いてるかである程度、篩にも掛けられます。 ワタシなら自分の作品に一万課金しますがね(≧▽≦) ソレでダメならもっと努力して腕を磨くだけです。」 この、作者がカクヨムに対してお金を払うという仕組みは実は僕も結構ありだと思ってます。 カクヨムを始めたあたりは、広告もなく、しかもこんなに洗練されたサイトで書かせてもらっているんだから、利用料払うべきなんじゃないのって真面目に思いました。 そののち、ロイヤリティプログラムという、書き手に対して報酬を与えるプログラムまで作り、カクヨムさんは本当に書き手に対してなんて優しいサイトなんだと思ったりもしました。 でも…… 皆さん、リワードどんな感じなんです
皆さん、どこまで推敲して投稿しているのか分からないが、僕はカクヨムで書いていた時は結構書いたばっかりの状態でもまあこんなんでいいかと投稿した。 前回までの「長編の書き方」でも書いた通り、物語の途中の段階であまり細かいところを気にかけてもしょうがないかなと思うからだし、これも前に言ったが、考えて時間を止めるよりも勢いのままに書いてとにかく物語自体を前に進めたいと思うからだ。 こんなことを書くと、まるで書きかけの原稿を並べているだけと言ってるようなものだが、実際そんな感じがしないでもない。 ただ、こういう投稿の仕方は読んでもらいたいと思っている書き手の方にとっては、心情的に難しいかなとも思う。 なぜなら、あんまり適当に書けばなんだこれはって、そこで読むのをやめられてしまうし、一度抜けた人は大概二度と戻ってこないからだ。 つまり、カクヨムみたいな小説投稿サイトではPVは常に下降線を辿るということ
最後の一行を書き終えたときの気持ち。 この感動は長編を書いた人しか分からないと思います。 長かった道のり。 何度も挫折しかけ、それでも頑張って書いてきた。 そして今、目の前に自分の作品が誇らしげにある。 長編を書き終えた人は、自分を誇っていいと思います。 それだけのことをやり遂げたと思います。 しばらくは、この思いに浸ってのんびり過ごしていいと思います。 でも、ちょっと待って欲しいんです。 最後のひと仕事をして欲しいんです。 すぐじゃなくていい。 少し間をおいてからでいい。 自分の書いた物語を最初からもう一度読み直してほしいんです。 自分の書いた物語を推敲して欲しいんです。 小説投稿サイトだと、今さら前に書いたものを直してもなって思うかもしれませんが、それでも見直してほしいんです。 その時は一話ごとに読むんじゃなく、ワードか何かに全部くっつけた状態で、できれば縦書きで読んでみて欲しいんです
キャラを立たせる。 これは本当に難しい問題です。 こう書けばキャラが立つなんて答えはたぶんない。 だけど僕的に、こういう書き方はイマイチだなというのはあるので、今日はそれをテーマに書いてみたいと思います。 例えば、学園一の美少女キャラを登場させようとします。 そのキャラを登場させようとするときに、どう書きますか? ドアをとんとんと叩く音がした。 「空いてますよ」教授はそういって振り返った。 すると学園一の美少女、花咲麗が入ってきた。 まあ、こんな書き方もあるんでしょうね。 この女性が単なる端役ならこれでもまあいいでしょうけど、これがメイン級のキャラだとしたらキャラの説明としては弱すぎでしょうね。 ドアをとんとん叩く音がした。 「空いてますよ」教授はそういって振り返ったが、入ってきた少女を見た途端、思わず息を飲んだ。そして呟くように言った 「……もしかして君があの……」 博士の視線を感じ、体
前回は、書こうとする長編の世界観をイメージできるものを見つけようみたいな話で終わりました。 となると、次はプロットを作るということになるのですが、僕の場合は、そこがちと微妙なんです。なんというか、その世界観を考える時にプロットみたいなものを一緒に考えてしまうんですよね。 どういうことかというと、前回紹介した「リバイアサン」という僕の書いている長編で例えると、リバイアサンという聖書に描かれる怪物をイメージしたと昨日書きました。 でもそれだけじゃ、ただの怖い怪獣に過ぎません。 だから、リバイアサンというものをどう物語に生かそうかと考えていたら、他にもいろいろとキーワードがぽつぽつ浮かんできたんですよね。 腐臭漂う現代の姿、宗教に翻弄される人間、世界を破滅に追いやるアンチクライスト(獣)。特にアンチクライストは人であるという聖書の一文が、かなり自分の中で大きかった。 リバイアサンという存在を神が
ファンタジーには、なんというかゴールがある。 魔王を倒すとか、姫を救い出すとか、まあ、そんな類のものだ。 でもここが肝心なところだが、そのゴールが主人公にとって必然なものであるかどうかということが重要だ。 例えば魔王を倒すとして、どうしてその主人公がそんな危険なことをしなければならないのか、その理由が弱いとそのファンタジーのリアリティが一気になくなる。 ファンタジーの名作、ハリーポッターではその点は実にクリアだ。 主人公のハリーは生まれながらにして特別な存在として扱われている。 なぜか? 名を言ってはいけないあの人が、唯一、殺せなかった赤子だからだ。 それが物語を貫く謎となっている。 ハリーと名を言ってはいけないあの人との間にある奇妙な共通点。 名を言ってはいけないあの人を倒すためには、ハリーは死なねばならぬという予言。 最後にその理由が明かされた時、そうだったのかと深く納得する。 いずれ
長編をどこで終わらせるかということは、いろいろ議論があるだろう。 ちゃんと終わりを見据えているのであれば何も問題ないが、マンネリになってしまうことも少なくない。 たとえば、北斗の拳という漫画がある。 あくまでも僕個人の意見だが、あれはやっぱりラオウの死で終わった方が良かったのではないかと思う。 カイオウ編がだめだと言うのではない。ただ、ラオウの死までがあまりに完璧すぎて、そこで終わればまさに伝説となっただろうなと思うのだ。 だがそんなことを思いつつ、カイオウ編が始まったとき、まだ続くんだと喜んだ記憶も自分の中には確かにあったのだ。 つまり僕の言っていることは、全部終わったあとにあそこで終わってれば最高だったのにといういわゆる結果論にすぎない。 カイオウ編が僕にとって凄いと感じられたら、こんなことを思いもしなかっただろう。 ただそうは言っても、やっぱりカイオウ編は新しい物語であり、おそらく作
今日も聖書ネタから。 僕が聖書に興味を持ち始めた最初のきっかけは、たぶん20世紀の終わりのころだったと思います。その頃、世界が滅びるとかそんな本がたくさん出てましたが(ノストラダムスの大予言とか日本沈没とか)、その中に聖書の黙示録があったのです。 僕は黙示録の世界に引き込まれました。 七つのラッパを吹く天使、四人の騎士、龍(サタン)、666の獣、バビロンの大淫婦、新しい天と地…… 最初は、こうした謎めいた言葉や世界観に引き込まれましたが、今は、まさに現代と黙示録の世界との対比という視点で関心が深まっています。 四人の騎士がというものがいます。 黙示録には、こう書かれています。 「小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、
僕は別にキリスト教信者でもないし、聖書に造詣があるわけでもありませんが、意外と僕の書く作品には聖書を題材にしたものが多いです。 僕が聖書に惹かれるのは神と呼ばれる存在にあまりに理不尽な点が多いことと、それに振り回される人間たちのドラマが物凄く魅力的だからです。 例えば、アブラハムという人がいます。 アブラハムはいわばユダヤ人の始祖みたいな人で、神はアブラハムに約束の地を与え、お前の子孫を星の数ほど増やそうと言われた。 ところがそう言っているにも関わらず、神はアブラハムに試練を与えます。 ある日、神の声が聞こえて、大事な一人息子のイサクを神への捧げものとして、燔祭(いけにえの動物を祭壇上で焼き殺し、神にささげる)にせよと命じるんです。 アブラハムの葛藤は聖書には書かれていませんが、それってありですか? しかもイサクという息子は100歳近いアブラハムとサラの間に産まれた奇跡の子どもですよ。そん
僕は、常に何かにはまってないとだめなタイプで、しかも、はまった以上は結構突き詰めるまで頑張るタイプです。 学生時代はギター、麻雀、そして狂ったようにビリヤードにはまりましたし、仕事についてからは、サッカー、マラソン、そして今はまっているのが小説を書くことです。 そして、自分がはまったこと全てに共通するのは、自分が納得するまでとことんやるってことなんです。負けたからとか、上手くできないとか、そういう理由では辞めない。とにかく、頑張って練習する。 そうしているうちに、自分の器が見えてくるんですよね。 自分はこのくらいかなと。 そこまでたどり着いて、ようやく納得するんです。まあ、このくらいでいいかなと。そして続けたり、続けなかったりする。 そういう意味では、小説を書くことについては自分の器がまだ見えていないんですよね。だから必死に書く。いろいろ勉強して、どんどん書く。そういう過程にいる僕にとって
本が売れるか売れないかは、作品の出来よりも時代のニーズに沿ったものかどうかということが往々にあります。 ある意味、生前は全然売れなかったけど、死後に評価されるなんてことは文学だけでなく、あらゆる分野でざらにあることでしょう。 あのゴッホが書いた絵だって、生前に売れたのはたった一枚ですよ! 近代文学の歴史でも、写実主義、ロマン派、私小説、戦後派など、時代時代によっていろいろな文学が一世を風靡してきました。 結局、そういう流行ってのは今でもあって、時代を反映したものがやっぱり売れるんですよね。 そういう意味では、現代の異世界転生やハーレム系ラブコメの人気なんてのは、現代の流行ということなのかもしれません。 でも、そこをもう少し分析してみると、僕が感じる現代のキーワードは、「閉塞感」と「不透明」ということなんじゃないかと思うんですね。 人口減少が続く中、結局、どんなに頑張っても戦後のように右肩上
僕がお金払って小説買うかどうか決める大きな要素の一つに、その作品又は作者に魅力的な世界観があるかどうかということがあります。 魅力的な世界観? 首を傾げる人もいるかもしれないし、これは僕しか思ってないかもしれないので、少し説明が必要かもしれません。 小説とはいわば作者が創造する世界です。 つまり作者と言うのはその小説を支配する神であり創造主でもあります。 だから小説には、その作者のこれまで培ってきた経験、知識、そして信念や想いが凝縮されているはずだと思うのです。 そうしたものが全て注ぎ込まれているのが小説だと思うのです。 当然そこには作者の個性が滲み出てきます。 成就されない恋愛を好む作者。若者の成長を好む作者。密室ミステリーを好む作者。緻密で壮大なファンタジーを好む作者。心理的、哲学的な話を好む作者。 そうした中でも、とりわけ際立ったまさにこれはこの人しか書けないだろうというくらい強烈な
初めに カクヨム体験記 1 読まれない 2 初めての★、初めてのコメント、初めてのレビュー 3 二作目を投稿 4 承認欲求の恐ろしさ 5 『SEX』 6 ライブで書く楽しさ 7 長編執筆の大変さ 8 ロイヤリティプログラム 9 カクヨムコンテスト 初心者の戦略 10 目的の明確化と取るべき手段 11 ★の意味 12 ジャンル設定 13 キャッチコピーとペンネーム 12 訓練の場 終わりに 初めに カクヨムという小説投稿サイトがある。 僕はかつてそこで小説を書いて投稿していたことがある。 そこで過ごした時間は、僕にとってはかけがえのない時間だった。 同じ趣味を持つ人たちと出会い、交流し、作品を読み合い、自分の作品のレベルがいったいどれくらいのものなのかをある程度知ることができた。 書くことが楽しくて、交流することが楽しくて、日に何度もサイトを訪れたものだった。 そうした時間を過ごすうち、物語
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