サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
掃除・片付け
blog.goo.ne.jp/hisao-mizutani
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.69年の思想家 ヘルベルト・マルクーゼという名前は、60年代末の世界同時「学生叛乱」の一瞬に若者たちを鼓舞する思想として伝染病のように広がった。ぼくも19歳の頃、翻訳の出た『一次元的人間』や『エロス的人間』を読んだことがあった。マルクーゼの主張がよくわかったとはいえなかったが、大雑把にいえば、自分のような名もなき若者でも、心のなかで湧き上がる情念、沸々たるエロスをエネルギーにして大人たちの作っている世の中を変えていいのだ、というメッセージに思えた。フロイトとマルクスという異質なものを融合し、個人の心の底にあるものと社会体制という大きな仕組みとがパズルのように取っ組み合って、実際に世の中がぼくたちの手で動いていくような気がした。ヘーゲルに由来し初期マルクスが論じた疎外
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.「数学的思考」と「文学的思考」 思いだしてみると、中学生の頃から数学が苦手になった。小学生の頃は「算数」だったが、図形を書いたり謎を解いたりするのは楽しかった。計算もそんなに難しくはなかった。しかし、算盤塾に通ってどれだけ早く正解を出せるかとか、暗算で頭の中でソロバンを弾くのはぼくには得意でないと思った。中学の数学では、方程式が出てきてテストはおもに計算問題になった。数学の勉強は方程式や数式を覚えて、そこに数値を代入しいかに早く答えに辿りつくかの競争のようなものになっていて、制限時間内にいくつ正解を出せるかのクイズだと思ったとたん、ぼくは数学が嫌いになった。学校の数学が、数学的思考の訓練というよりは、決まったルールの中での「解法のテクニック」競争、頭の良さの誇示にな
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.武力の行使について ぼくは格闘技に類するものは、高校時代に体育の選択で剣道を3年間やったのと、これも高校時代友人に誘われてちょっとだけ少林寺拳法をやったことがあるだけである。剣道は瞬発力の勝負で、相手に打撃を与えるといっても、木刀や真剣でやらない限り、身体のダメージはなくゲームのようなものだと思った。少林寺拳法は、相手の動きを読んで筋肉の逆を押さえる技術で、合気道ほど「気」を重視しないが、決め手は急所を突く制御された暴力の組織化だと思った。生きている人間の身体を、自分の力でどこまで制御できるか、もちろん相手を抹殺するという動機はない。 ぼくたちが今生きている日本、東京の日常生活で、個人の腕力・暴力がものをいうことはまずない。柔道とか空手とか、格闘技はあくまでスポーツ
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.山本太郎天皇手紙渡し事件のこと ぼくはあとどのくらいこの世に生きるのだろうか?そんな問いはほとんど意味はないのだが、今のところ64歳を迎えてもとくに身体にたいした異常はなく(強いて言えば左目が緑内障で少々視野が狭くなっているくらいだが老眼はまだない。暗くても文庫本は読める)、毎週6キロ30分ランニングをして結構ハードなウェイトトレーニングをこなして、同世代の人に比べれば風邪ひとつ引かずかなり元気だ。近いうちに倒れて動けなくなるような病気になるとは思っていない。二十前後の学生と一緒に動き回っても、彼らの方が先に疲れる。そうはいっても、誰だって明日死ぬかもしれないのだが。 多くの人がそうであるように、多少健康の不安があったにせよ個人としての日常生活にさしたる支障はなく、
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.「個人主義」だからダメになった、という言説の元は? ぼくが子どもとして育った環境には、イデオロギー的な発言を回りにまき散らして、若年者を殴ったり怒鳴ったり、感情的に自分の意見を押しつけるような人物は、ほとんどいなかった。いちおう東京の賑やかな場所だったし、うちの父や近くに住んでいた伯父たちの職業は、サラリーマンは誰もいなくて、モノを売ったり作ったりする商売人だったから、金儲けに忙しくてあんまり観念的なことを弄ぶ暇がなかったのか、それとも激しい戦争の時代を生き抜いてきた人たちだから、世の中を空虚なスローガンが飛び交うことには飽き飽きしていたのかもしれない。そもそも感情を表に出して、ぶつかりあったり罵倒したりという姿を見たことがなかった。いろいろ実はあったのかもしれない
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.憎悪の生みだす幻影について 「マイ・ブラザー」(ジム・シェリダン監督2009)という映画がある。デンマークの女性監督が撮った映画を、ハリウッドでリメイクしたものだというが、それを現代の米軍帰還兵の兄とその弟の物語に焼き直した渋い映画である。戦争に行った夫が戦死と伝えられ、子を抱えた妻は夫の弟と親密になったところで夫が生還して帰ってくる、という世界中で昔から戦争をした国ではよくあった事例のドラマである。しかし、この「マイ・ブラザー」は何よりアフガニスタンでの戦場場面の過酷さを描いて、本国で平和な日常を生きている人間の想像を超えたものを映像化する。物語はだいたいこんな筋である。 海兵隊大尉のサム(トビー・マグワイア)は、よき夫でよき父だった。落ちこぼれの厄介者の弟トミー
写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ A.政見放送なんか見ちゃった! 参議院選挙の候補者の政見放送というのを、たまたまNHKでやっていたので見た。埼玉県で出ているというある30代後半とみえる候補者は、いかにも慣れないTVカメラの前で、かなり落ち着かない様子で語っていた。今の日本で、政見放送などというものをちゃんと視聴しようという人は、候補者の身内以外にはほんとんどいないだろうと思われるが、ぼくにはこの候補者が語る政見、というより歴史観がちょっと興味深かった。かれの政党はある宗教団体をバックに多くの候補者を立てているのだが、みなその教祖ともいうべきカリスマの唱える歴史観を、同じように繰り返している。 いわく、日本はかつて世界に誇る素晴らしい経済成長を遂げ、アメリカに並ぶほどの豊かで強い国を築いたのに、誤った政
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『blog.goo.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く