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説教題:『神に対して償いを』 ペリシテ人たちは、神の箱の扱いをダゴンの祭司と占い師に相談した(6:2)。イスラエルの神がもたらした災いに困り果てた末、彼らが頼ったのは自分たちの宗教や占いだった。真の神から離れている人間の姿を考えさせられる。ペリシテ人にしてみれば、神の箱はイスラエルとの戦いに大勝して手に入れた戦利品の一つだ。それを送り返そうというのだから、屈辱も混じった複雑な心情も考えられる。祭司や占い師らは、出エジプトのエジプト人とファラオを引き合いに出して、「心を硬くする」のを戒めた(6:6)。そればかりか、『神に対して償いを』と助言した。神の箱を元に返すだけでなく、真の神に対する不遜の罪を認めて償うようにということだ。真の神を敬わない罪は重く、その代償は大きい。神への不遜な態度は私たち罪人にとって根深い問題だ。しかし、イエス・キリストが私たちの罪の償いとなってくださったことにより、神
2019年7月 Ⅰサムエル記4-5章 『主の契約の箱をわれわれのところに』:Ⅰサムエル記4:1-11 『主に拠り頼む信仰』とはどういうものだろうか。誤解は悲しい結果を引き起こす。イスラエルの人々にサムエルが預言者だと認知された頃、ペリシテ人の勢力は北上し、イスラエルの所有する地域に侵攻した(4:1)。イスラエルは序盤で敗北し、建て直しを図る作戦会議を開いた。長老たちは、「『主の契約の箱をわれわれのところに』持って来よう」と提案した(4:3)。その作戦を実行すると、イスラエル軍の士気は大いに上がり、ペリシテ人は動揺した(4:5-7)。作戦の効果は抜群に見えたが、イスラエルは大敗した(3:10)。神の箱はペリシテ人の手に渡り、同行していた祭司ホフニとピネハスも戦死した(3:11)。おまけに、敗戦の知らせを聞いたエリの転落死、ピネハスに生まれた息子「イ・カボデ」の名も、イスラエルの深い悲
先週末から、行事や講座への出席が続きました。私にとってどれも外せないもので、ちょうど同じ時期に重なりました。 まずは、神学校の「教会音楽のひととき」です。久しぶりに神学校のチャペルに出席。午前中のチャペルや授業見学から参加している方々を多数お見かけました。私にとっても、落ち着いて説教を聴ける機会は貴重でした。 そして午後は、いよいよ「教会音楽のひととき」本番です。ヨハネ受難曲についての解説が入り、内容はコンパクトに。それでいて、朗誦、朗読、聖歌隊の合唱と楽器の演奏がよく組み合わされて、キリストの受難の場面を彷彿させ、心に訴えるものでした。
今年も、私の母校の神学校(聖書宣教会 聖書神学舎)で、卒業予定者による説教が始まりました。 これまでの3年ないし4年、聖書を学び、牧師や伝道者となるための訓練を受けてこられた卒業予定者が、卒業前にチャペルで説教します。 今はせっかく行ける距離にいますので、チャペルの時間に夫婦でお邪魔することにしました。それはもちろん、よく知っている後輩が語る機会だからということもあります。 ですが、主を礼拝するときですし、神に召され献身した者が訓練を経て、これから派遣されていくのを意識します。フレッシュな緊張感というか、初心に帰る思いで、私自身も立ち会わせて頂きました。 今日の説教は、Fさんが卒業研究で取り組んだことを踏まえたものでした。新約聖書のエペソ人への手紙2章から、人の罪深さの深刻な現実に対して、神の恵みがいかに豊かであるのかを教えてくださいました。 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してく
CAKE & CAFE BLISSは、浜松市北区三ケ日町にある、おしゃれなカフェです。 実は、私の妻が地元にいた頃に英会話を教えていた生徒さんが開いたお店です。 余談になりますが… 昨年私が神学校を卒業するときにも、焼菓子をお取り寄せして、お世話になった方々への挨拶に添えました。 それから、もうまもなく一年になります。 ふと、そんなことを懐かしく思い出しながら、おいしく頂きました。 ブログがリニューアルして、今回からgooblogの新しくなったアプリで投稿してます。
東村山聖書教会は4年目を迎えました。 礼拝は平均十数名の参加者ですが、講師を含め折々の行事等に訪ねてくださった方々も入れると、100名以上が足を運んでくださったことになります。 現在は特定の団体等に属していないものの、主にある交わりの中で、この開拓教会が育まれていることを実感しています。 2019年1月の礼拝説教(旧約講解分2回)のあらすじを掲載しておきます。 今月からサムエル記に入りました。 2019年1月 サムエル記第一 1:1-19 現代人も人間関係に悩む。人間関係をテーマに考えたい。エフライムのラマという町のエルカナには、二人の妻、ハンナとペニンナがいた(1:2)。最初の妻ハンナとの間に子供を授からず、当時の慣習により、ペニンナを妻に迎えたのだろうか。ペニンナとの間には子供たちが生まれた。エルカナは家族を連れて、シロでの礼拝に毎年出かけていた。これらの記録から、二人の妻を迎えるだけ
先日は、牧会ステーションの基本クラスに参加しました。 朝から四ツ谷へ。 会場準備をして、みなさんを迎えました。 午前は、「牧会的説教」をテーマに講義と質疑応答が行われました。 途中、小グループでの分かち合いの時間も。 説教には説教者と会衆の双方向の対話的要素があるということでした。 講師の具体的なエピソードも織り交ぜられ、教えられ、考えさせられ、励まされる内容でした。 午後は、「寄り添う」ことがテーマでした。 自分が相手のために何もできそうにないとしても、一緒にいるということがお互いにとって力になるようです。 相手のために何かを「してあげる」という時点で「寄り添う」のとは違う関係になっているのでは …というのも考えさせられました。 今回、個人的にちょうど良いタイミングで教えられたことも、特にいくつかありました。 納得感と充実感を味わって、会場を後にしました。
しばらく前の授業でのこと。 論文演習というクラスで、自分の卒論に関する発表をしました。 先生やクラスメイトからの質問やコメントを頂くのですが、その中でM先生から、「シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の一場面みたいですね」というコメントを頂きました。 ちなみに、私の卒論で取り上げている聖書の場面は、サムエル記第二16:20-17:14です。 イスラエルの王ダビデに対して反乱を起こした、王子アブサロムが登場します。 そして、アヒトフェルとフシャイという二人の人物が、アブサロムにそれぞれ異なった助言をするところです。 実は…学生時代にいくつかシェイクスピアの作品を読んだのですが、『ジュリアス・シーザー』はまだでしたので… これを機会に読んでみようかとふと思い立ち、翻訳ですが早速目を通してみました。 (そんなことしている時間はあるのか!と自分で自分にツッコミを入れてましたが...) 『ジュリ
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