生麦事件の賠償金支払いを拒否 事件の発端(ほったん)は、前年の生麦事件(なまむぎじけん)でした。1862年、9月14日上洛を果たした島津久光(しまづひさみつ)は、江戸に上った帰途、神奈川県横浜の生麦村を通過途中にイギリス人リチャードソンの一行4人が、馬で薩摩藩の大名行列を遮るという事件に遭遇します。 当時の国法では、産婆(さんば)や医師()以外は大名行列には道を譲るのが慣例でした。しかし、リチャードソンは「下馬して道を譲れ」という警告に従わずますます久光の駕籠(かご)に接近、やむなく薩摩藩士が抜刀して飛び出しリチャードソンを殺害、2名を負傷させました。 イギリスは日本人が外国人を裁く事を禁じた治外法権を盾に、事件の犯人の処分と賠償金(ばいしょうきん)を幕府と薩摩藩に求めます。幕府は渋々、10万ポンドを支払いますが、イギリスの代理公使のニールは薩摩藩にもリチャードソンの遺族の養育費として2万