サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
miporintama.hatenablog.com
神様は現実に私たちの目に見ることができず、 私たちの手に触れることができません。 だから、「神様はそこに存在してます。」と言われても、 なかなか受け入れることができない人も多いです。 そのため、「私はこの程度の人間だ」と自分自身を自分の中で決めてしまったり、 諦めたりしてしまうことも、よくあります。 過去の失敗をいつまでも悔やみ、その中で生き続ける人、 未来の不安ばかり考えて、自らの未来を黒く塗りつぶす人、 「私みたいな人間は、神様から愛を受け取る資格ありません」と言って、 神様を自ら拒む人、 自分で自分を「つまらない人間だ」「どうしようもない人間だ」と、 誤った裁きをやめない人、 その不安定な心を周りのせいにして、他人さんを裁き、縛りつける人、 人は弱くて、利己的で、不完全だから、 誤った考えに心まで支配されてしまいがちです。 あなたがどんな人なのか、 あなたが何をしたか、 あなたが何を
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出した。(ルカ8:22) 聖書の中に出てくる『湖』というのは、「底知れない人の不安」を表していることが多いそうです。 「湖の向こう岸へ渡ろう」とイエス様が言われた言葉は、底知れない不安な人生も、あなた1人ではわたらせません、「わたしと共に渡ろう」との意味です。 舟で湖を渡っていると、突風が湖に吹き下ろし、弟子たちは水をかぶり、「このままでは死んでしまいます」と眠っているイエス様を起こして言いました。 イエスは起き上がって、風と荒波をお叱りになると静まって凪になった。 イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。(ルカ8:24-25) どんな人生の嵐や荒波もイエス様はお叱りになり、静めてくださいます。 そして静まって安心をお与えになった後、私たちに教えを与えるのです。 人生の嵐や荒波の時こそ
今まで生きてきた中で、私たちを酷く困らせたり傷つけたりする人に関わってきたことがあると思います。 納得できない気持ちにさせられたり、良心を利用し罪悪感を植えつけたり、嫉妬をあおるように振る舞ったり、下僕のような目で私たちを支配しようとしたり、 まるで自分が神様のような感覚なのでしょうか? 聖書の詩編には、そんな悪人に対して私たちはどのようにすればいいか、そして悪人はどのようになるのかも教えてくださってます。 悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる。(詩編37:1-2) 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。 己の道の栄える者に対して、悪意を告げようとする人に対して腹を立てるな。 怒るのを止め、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それは悪への道だ。(詩編37:7-8) この後、悪人がどの様になるか教えてくださってます。
ソウルメイトのように「ソウル(魂)」を大切に生きることをおススメされているのをよく目にします。 ソウル(魂)とは、自分の意志や気持ち、感情といった自分自身のことです。 「人に言われたことで傷つきグラグラ心が揺れるなら、自分の魂、気持ちや意志を大切にし、信じて生きて行けばいいじゃないか?」などという思想だと思います。 私も1人で人生に悩み苦しんでいた時は、それらの言葉に救われました。 「自分をもっと大切にしよう」と思わせてもらいました。 けれど、ソウル(魂)の部分ばかりを大切にすることは、いずれ神様から離れた考えになるだろうとのことです。 神様は私たちに『肉体』『魂』『霊』をお与えになりました。 そして神様との交わりが出来るのは『霊』(スピリット)の部分です。 『スピリット(霊)』の部分が生きてこそ、『ソウル(魂)』の部分が生かされるのだと教えてくださってます。 ソウル(魂)に従って生きるこ
もしも、今見えない恐怖や不安に襲われて、朝を迎えることすら恐怖の中に生きているならば、 また、大きな罪悪感が自分自身を支配して、自分の心が張り裂けそうな気持ちになっているならば、 どうか、忘れないでください。 神様がそおばにおられることを。 にわかに起こる恐怖に怯えるな。 悪者どもが襲いかかっても、怯えるな。主があなたのわきにおられ、 あなたの足が罠にかからないように守ってくださるからだ。 (箴言3:25-26) 見えないけど、聞えないけど、触れれないけど、 神様はおそばであなたを守っておられます。 だから、怯えないで。
『神はいかなる患難の中にいる時でも、私たちをなぐさめてくださり、』と書いてあります。 私たちが苦しみの中で悩み生きている時、神様は私たちをそばでずっとなぐさめてくださっています。それを感じようと感じなかろうと関係なく、神様はそうなさってくださっています。なぜなら、神様にとって私たちが特別な存在だからです。 『また、私たち自身も神になぐさめて頂くそのなぐさめをもって、あらゆる患難の中にある人々をなぐさめることが出来るようにしてくださるのである。』と続いてます。 私たちは悩み苦しんでいる人をなぐさめることが出来ます。 それは、私たちが神様の御心によってなぐさめられた、そのなぐさめが私たちにも備わったためです。 悲しみや苦しみで涙している人がいたら、神様から頂いたなぐさめをもって私たちもその人たちによりそいましょう、と言われてます。 誰もひとりぼっちではありません。 けれど、それを知らない人はひ
成功しようが、失敗しようが、 勝とうが、負けようが、 金持ちでも、貧乏でも、 仲間に入っても、除外されても、 知られても、忘れられても、 あなたが私の内にいて、私があなたの内にいることを確信できますように。 (ヨハネによる福音書) 神様を見失うことなく生きることは、どんな道を歩もうと、 どんな試練をあたえられようと、どんな迫害を受けようと、 歩む道は神様が用意してくださる道であり、試練は神様の御技を感じる時であり、 迫害されていても、決してひとりではないことを知ります。 神様が私の中で生きていてくださり、私は神様の御胸で生きています。 それを感じれた時、私は幸せに包まれます。
先日、友達と話をしていて、彼女がこんな事を言っていました。 「昔の私は分からなかったけど、今は『この人は自分にとって必要な助言を言ってくれる人だとか、この言葉は私に必要だ』とか見分けることができるようになった」 ある人が仰っていました。 神様は色々な形で私たちの成長を助けてくださいますが、尊敬すべき周囲の人々の知恵を通して私たちに神様自身の知恵や教えで導いてくださる時もあります。(引用) 神様はあらゆる方法で私たちが良く生きるためにメッセージを与えてくださってます。 私たちの霊的な部分で見つけられるのだと思います。 感じやすい人は受け取ることも多いでしょう。 けれど、感じにくい人も、疑いの目を向けず、感じる努力をしてほしいです。 私たちは神様から作られた霊的な存在なのだから、必ず受け取ることが出来ると信じてます。 見える世界だけが生きてる世界ではありません。 私たちの見えない世界にこそ、私
神様との繋がりの中で大切な行いのひとつに、『お祈り』があります。 『お祈り』は神様との対話だと思います。 お祈りをすることで、神様との信頼や絆も深まります。 そしてお願いも聞いてもらえます。 神様は私たちのお祈りが大好きだそうです。 私たちの声が聞きたいんだそうです。 お祈りには幾つかの種類があります。 「願いを乞う祈り」や、「感謝を捧げる祈り」、「許しを請う祈り」、 「相談する祈り」また、「宗教的儀式の祈り」などです。 どんな宗教でも、お祈りを大切にしている印象があります。 それほどにお祈りは神聖なものなのでしょう。 私はお祈りが大好きです。 1日に何度も行っています。 それは神様を思い出す時でもありますし、いつでも忘れないようにしたいからです。 お祈りは神様を感じるひとつの方法だと思います。 いつでも、どこでも、何度でも、 是非、生活の中にお祈りを加えて、神様との繋がりを感じて頂きたい
私たちは、何度も何度も同じ過ちを繰り返します。 「なんであんな言い方をしてしまったんだろう」 「また口出ししてしまった」 「優しくしようと思ったのに、出来なかった」 毎日毎日同じような所でつまずいてしまう。 それを繰り返すうちに、 「私はなんて酷い人だろう」 「やっぱり私はダメな人間なんだ」 「ひとつも成長してない」 と、自分の人格までも否定してしまう方向になりがち。 人間は不完全です。 自分だけが不完全ではありません。 自分だけが過ちを繰り返してるわけではありません。 みんな同じことで壁にぶつかってます。 だから心配しないで。 失敗したら、また『悔いて』『改め』ればいいのです。 決して『悔いて』ばかりで終わらないように、『改め』ればいいのだと教えて頂きました。 そして、私たちが気づかないペースでも、少しずつ少しずつ、向上していけてることを、憶えておいてください。 いつでも神様の方にお顔を
私たちは『肉体』『魂』『霊』で出来ているそうです。 『肉体』は、私たちの体の部分で、「欲」に繋がります。 肉体は「欲」に弱く、良くない行いに惹かれやすいそうです。 過剰な食欲、飲酒、色情、支配欲、お金に対する執着、権力に対する囚われ、 外見ばかり気にする行為などなど。 これらは人間なら必要なものではありますが、過剰に求めすぎることが、 いけない事だと仰ってます。 『魂』は、人格、感情、意志、思考、経験、記憶など、自分自身の心の部分です。 『霊』は、神様との繋がりの部分です。霊の力で私たちは神様の言葉を理解するそうです。とても大切な部分です。 もし、『霊』が生きてなく、『肉体』の欲に負け、『魂』の部分の感情や人格が激しくなったら人はどうなるでしょうか? ある人は、地位や名誉にこだわり、人格まで変り果ててしまうかもしれません。 ある人は、お酒におぼれ、感情のコントロールがきかなくなるかもしれま
マザー・テレサの言葉に、 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。 というものがあります。 同じように、哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームスの言葉で、 心が変われば、行動が変わる。 行動が変われば、習慣が変わる。 習慣が変われば、人格が変わる。 人格が変われば、運命が変わる。 というものがあります。 どちらも同じようなことを仰ってます。 そして、どちらもスタートは私たちの中から生まれたものからで、 最終的には私たちの人生そのものまでを言ってます。 私たちの心をどのように持って過ごすかで、運命までも変えてしまう力があるのでしょう。 私たち1人の力で自分の心を穏やかに優しく安
先日、知人の少し高齢のAさんと久しぶりにお会いしました。 しばらくお顔を拝見していなかったので、どうなさっていたのかお聞きしたところ、 「ヒザを悪くして入院、手術をしていたのよ」との事でした。 どうやら、歩きスマホをされていて、転けてしまったそうです。 前向きなAさんは、ヒザを痛めたせいで、これからの人生歩くことが不自由にならないように、手術の次の日からリハビリに精を出していたそうです。 入院での楽しみは食事だったらしく、毎回の食事が楽しみで仕方なかったそうです。 「それが、何を食べても美味しくて美味しくて~」と仰っていました。 同じリハビリをするならと、病院の周りを散歩して楽しんでいたそうです。 そして「みーさん、私の部屋がまた最高の個室だったのよ。窓を開けると風がスーッと通り抜けていくのよ」と仰っていました。 高齢に近いAさん、年齢的に本当なら「寝たきりになるんじゃないか?」とか、 「
試練には、『神様がお与えになった試練』と 『神様から離れた人が自ら作り出した試練』があります。 神様から離れた人が作り出した試練には、そこに神様が宿っていないので、 すべてを自ら刈り取らなくてはいけません。それはとても困難な道のりです。 望む道に辿り着けるかどうかもわかりません。 自らを神様のように振る舞ったり、他のものに救いを求めているから仕方ありません。 けれど、神様がお与えになった試練は、神様は私たちを試されてるそうです。 その試していることとは、『誰に頼るのか?』ということなんだそうです。 よく『乗り越えられない試練はない』と言いますが、 あの言葉は、神様を信じている人の試練の言葉だそうです。 神様は私たちが神様に頼ることに気づいてくれることを待っておられるのです。 そして神様に頼り求める人には、『平安』『なぐさめ』が与えられると仰ってます。 今ある試練を神様からのものであるか、そ
私が見ていて思った事です。 神様の存在を信じ、心に神様の霊が宿っていると感じる人は、神様のことを語る時、 ある人は、大好きなタレントさんのことを語る時のように、 ときめいた気持ちで語っていたり、 ある人は、生き別れの親子の再会のような気持ちで涙を浮かべて語っていたり、 ある人は、恋人に会っているような恋する気持ちで語っていたり、 ある人は、自分を救ってくれた恩師のような気持ちで語っていたりしてます。 その姿は、皆さん絶対的な揺るぎない信頼感と安心感に包まれてます。 ある高齢の婦人が病に倒れ、半分回復された体で、 「私はもはや自分自身は死んでおります。今は神様が私の中にいて、 私を生かしてくださっているのです。」と仰っていました。 体は立っているのがやっとなのに、振り絞るようなお声で強くはっきり仰ったご婦人は、ご病気にもかかわらず、お幸せそうでした。 私たちが生きていると、どうしてもこの世で
どうしてもこの人生が辛すぎて苦しすぎて、 「私は何で生まれ、何で生きてなきゃいけないの?」と悩んでいる人たちもたくさんいると思います。私もその一人でした。 ある人が「その考えを『神様は何で私を生かしておられるのだろう?』と、 自分中心の考えから神様を軸に考えるようにしたら、生き方が見えてきた」と 仰っていました。 私たちを生かすことで神様は何を求めておられるのだろう? そう考えた時、私の小ささが際立って感じました。 神様は私たちに、愛を持って幸せに生きてほしいと望んでいるはずだから。 なにか困難があっても、「恐れず私に委ねなさい」と何度も仰っていて、 私たちを恐れから解放してくださろうとなさってます。 心配性で頼りない弱い私たちを安心して生きていけるため、 いつも寄り添っていてくださり、私たちの内にいてくださっています。 すべては私たちに愛を持って幸せに生きてほしいから。 それを心から感じ
言いたいこと、伝えたいことは、「言えばいい」「伝えればいい」という訳にはいきません。「伝わる」ように「伝える」ことがとても大切です。 ある人が、『人に伝わるコミュニケーション』とは、 ・ハッキリ伝わる言葉を使う。 ・ピンとくる言葉を使う。 ・言葉以外の要素を使う。 と仰っていました。 『ハッキリ伝わる言葉』とは、物理的に音として伝えること、聞える音量や語尾で しゃべることです。これは訓練で上手くいくそうです。 『ピンとくる言葉』とは、自分だけが分かる言い回しや、言い方ではないこと。 『言葉以外の要素』とは、動作のこと。(泣いたり笑ったり、お辞儀をしたり) 私も文章を作ることや伝えることが、得意ではないので、 ブログで言いたいことを伝えているつもりでも、伝わっているのだろうか? と思ったりしてしまいます。 けれど、伝わってほしいと思ってます。 上手い文章は書けないけれど、心を込めて書いていこ
『褒めること』 そんな言葉が飛び込んできました。 私は褒められるととても嬉しいです。やりがいも出てきます。 時々私は家にお越しになる方に褒められます。 「トイレがきれいで気持ちいいね」とか、 「玄関を打ち水してるの?すごいね」とか、 ちゃんと見てくださってるんだ~と思ったりします。 ブログをやっている中でも、ブロガーの方々からもとてもたくさんの嬉しい愛ある言葉を頂けてます。 その優しいコメントに励みや癒しや元気を頂き、ありがたい気持ちになります。 『お世辞』は言った後に見返りや、自分が得するよう期待する行為に感じますが、 『褒めること』はその人の良い所を見つける行為に感じます。 その人に愛を与える行為のように思います。 褒められた私は、その人からの『愛』を頂いた気持ちにもなります。 『褒めること』は神様が仰ってる『自分を愛するように、隣の人を愛しなさい』に 繋がることのように思います。褒め
生きていく中で、小さなことや大きなことや関わりある人のことで、 悩んだり迷ったり頭をグルグルさせたりして過ごしたりします。 「絶対信じられない」の思いは心を固くして、あまり気持ちの良いものではありません。 だけど「信じてみよう」と心に思った時、あれだけ悩み迷って心を固く苦しめていた思いが、フワリと解放された気持ちになります。 それはまるで魔法にかかったように。 状況は何一つ変わっていないのに不思議です。 見えない未来や世界を「信じる」のは冒険であり、勇気あることかもしれません。 もしかしたら何かを失うことに繋がるかもしれない。 「信じない」ことの方が保守的で自分を守れるのかもしれない。 けれど「信じない」ことで『悩み』『迷い』が『苦しみ』に変わっているならば、 勇気を持って「信じてみよう」と思ってみてはいかがかな?と思いました。 その瞬間フワリとした解放が生まれ、不思議な力も頂けるような気
「あれをしなきゃいけない」 「これを考えなきゃいけない」 「早くやらなきゃいけない」 「どうにかしなきゃいけない」 「まだ出来ていない。急がなきゃ!」 焦ってばかりで前に進まず、肝心のアイデアも浮かばず、段取りも悪くなる。 心を入れることを忘れ、 「何をやっているのだろう?」 「何がやりたいのだろう?」と思ってしまう。 そんな時は落ち着いて、少し離れて見ることも大切だと教えて頂きました。 焦る気持ちが、あらゆる声を聞こうとしなくなっているみたい。 人の声も、神様の御声も。 神様の御声は私たちの『霊』の部分で会話されます。 はっきり聞き取れる人もいれば、何となく導かれるとか、 ピーンとくるとか、スーッと入ってくるとか、 それらすべては私たちの『霊』の部分で反応してます。 焦りのあまり、自分の耳も心も知らず知らずのうちに外部をシャットアウトして、 自分の力だけで解決しようとしては、どなたの声も
神様が私たちをお造りになった目的は、私たちが「生まれてきて良かったー」と 思う人生を送るためだそうです。 『命を豊かに過ごすため』だそうです。 それは「神様から離れた心から生まれるものではない」と仰ってます。 神様から心が離れてしまって、行いを自分だけの力で成し遂げたと思うことは、 一時的に成功したように見えるけれど、 のちに苦しみを生むことに繋がると仰ってます。 神様が心から愛してくださることを知って、神様の宿りを感じるように、 恩恵を感じるようにと思って生きていると、人生の学びも教えてもらえてるような気がします。 生かされてる実感を感じずにはいられません。 そして『生きてる意味』の迷子にならないように導いてもらえてる気がします。 あなたの御言葉は、我が足のともしび。我が道の光です。 (詩編119:105)
あるご婦人のお話です。 そのご婦人はとてもお金持ちで、生活にも老後のお金にも何も心配がない暮らしをされています。 子供たちも巣立ち、今は大きなお屋敷にご主人と二人暮らし。 自分たちの住みよいようにリフォームもされたそうです。 ご両親も他界され、財産がまた有り余るほど入ってきたそうです。 空いた時間で英会話やハンドベル、絵画などの習い事もされていて、 時々お友達とランチに行ったり、お出かけもされているそうです。 そんなご婦人は「私の毎日はちっとも楽しくない」と仰っているそうです。 毎日が退屈で幸せを感じないそうです。 自分から喜ぶ気持ちを持たないことは、どんなにお金があって人からみれば 恵まれた生活でも、虚しい空間と時間になるものなんだ、と教えられました。 幸せになるには、全てを与えてもらおうと待っていては、どれだけ多くを与えてもらっても気づかないものなんだと感じました。 気づくには、ほんの
どうしようもない悲しみの中で、怒りに震えるような思いをして、 「もうダメかも」と思って、何もかも投げ出したくなった時、 神様はそんな私たちを優しく抱きしめて一緒に苦しみの中を歩んでくださいます。 神様は決して私たちを試練のない平安だけの世界をお与えしようとしてるのではなく、 私たちに必要な試練ならお与えになり、その中でも平安に生きていけるように導いてくださってます。 だから神様に願っていても、次々に試練がやってくるのは、私たちの魂や霊が成長し、満たされるためです。 『乗り越えられない試練はない』と言う言葉がありますが、それだけではなく、 神様は試練に耐えられるように、逃れる道も備えてくださっているのです。 神様を信じて神様の存在を大切に思い、自分自身も大切に思っているならば、 今ある苦しみから解放される道を願い祈ってください。 必ずふさわしい道に導いてくださると信じてます。 そしてその道を
「幸せな1日になりますように」いや、『幸せは自分から気づくもの』 そんな言葉が飛び込んできました。 与えられているものが代わり映えしなかったり、求める気持ちが強い時などは、 自分の置かれている状況の幸せを忘れがちになってしまいます。 まるでたくさんのクッキーがポケットにあるにもかかわらず、 新しいクッキーを求めてしまうように。 時間がない、体力がない、お金がない、友達がいない、 分かってもらえない、労ってもらえない、言うことを聞いてもらえない、 「だから私に与えてください」そう祈ってしまったり。 何か自分の生活の中で、満たされない思いがある時こそ、 今ある状況を見渡してみる必要があることを、すっかり忘れています。 『いつも喜んでいなさい』と仰る神様の御心から離れてしまった思いでは、 幸せを見つけ出すことも難しいのかもしれません。 与えられたものの幸せに気づかず新しいものを得ても、それは束の
昨日、自分のことを大切に出来たのに、 今日また自分のことを大切に出来なくなってしまった。 また、 昨日、人のことを大切に出来たのに、 今日また人のことを大切に出来なくなってしまった。 人はそんな思いを繰り返す自分に後悔して、嫌気がさして落ちこむ時があります。 何回も同じ間違いを繰り返してしまう弱いところがあります。 その日の心の状態や体の状態によって左右されてしまうのも人間らしさなんだろうと思います。 私たちは誰しも自分の弱い所や、悪い癖、直したい性格があると思います。 けれどわかっているのになかなか直せないものです。 これを直せばもっと生きやすくなるのに、もっと人間関係がスムーズにいくのに、 分かっていても直すことが困難です。 そんな私たちなのに、私たちは時々自分以外の人を変えようとします。 それはもしかしたら少し高慢になっている時かもしれません。 あれだけ自分自身ですら変わることが出来
頑張って幸せになろうと努力していたり、他人さんに親切に生きていたりしても、 なかなか自分の人生が思うように上手く進まないものです。 あとどれだけ私は我慢しなければいけないのだろう? 本当に私は幸せになれるんだろうか? この霞をつかむような生き方はいつ終わるんだろうか? 結果が思うように見えないと不安になってきたりします。 けれど自分の人生をせっかちな自分の考えの中だけで生きないでください。 私たちがそれらを乗り越えれる時は、人生が終わる時に分かるのかもしれません。 神様が心に宿り、共に歩んでいる人ならば、神様は私たちを必要な道へと歩ませてくださってるはずです。 今ある道が神様から離れて自分ひとりの力や知恵で歩んでいるのか、 神様が心に宿り、神様がお与えくださった道を共に歩んでいるのかは、 自分の心次第だと思います。 あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(詩編119:105)
先日ある所へ行って、心が浄化されて帰ってきました。 その帰り考えていました。 神様は私が「生まれてきて良かったー!」「ああ幸せだー」と思って 生きてほしいと教えてくださったんだなぁ、と。 だから私は幸せを選ぶことが大切なんだ、幸せを感じていたいと思いました。 マイナス思考、ネガティブな世界に生きていると、 幸せになることを恐れ、幸せを感じることに罪悪感を持ってしまいます。 そして上手くいかないことで「神様なんていないんだ」と 自ら神様と距離を置こうと考えてしまいます。 神様は私たちが神様から離れて、 自分自身の力だけで生きていくことは良くない事だ、と仰ってます。 それは必ず限界があるからだそうです。 どんな時でもどんな人にも、神様は平等に愛を与えてくださってます。 手を差し伸べてくださってます。 それを自ら見ようと感じようとせず、自分だけの力で生きていると勘違いを犯してしまいます。 それを
今ある世界で生き辛さを感じて、孤独や敗北感の中で戦っている時、 見えない出口をさまようような感覚は、とても長く苦しい時間に感じてしまいます。 神様は『あなたがたは、この世と妥協してはならない。』と仰ってます。 この世にあるものに支配されて苦しまないようにと仰ってます。 お金はとても大切ですが、お金に支配されてお金の奴隷になっていませんか? 地位や名誉は自分を誇り高くするものですが、 地位や名誉に支配されてそれらの奴隷になってはいませんか? 情報を得ることはとても快適に生活できますが、 情報に支配されて情報の奴隷になっていませんか? 自分を誇りに思い、自分を尊重することは素晴らしいことですが、 自分だけの力だとか、自分で自分の価値を決めていませんか? それらの奴隷になることを神様は良くないと仰ってます。 この世の支配はいつか必ず行き詰まりがあるからだそうです。 神様は私たちが傲慢になることも
私たちは感情に左右されて、時に喜んだり、時に怒ったり、 時に不満をタラタラ言ったり、悲しくて涙を流したりします。 魂に従って生きると、どうしても感情に支配されやすくなってしまいます。 神様は私たちの内におられます。 私たちが喜びに満ちている時、私たちの内なる神様の居心地は良く、 私たちが怒りや、腹立たしい中で生きている時、 内なる神様の居心地は良いものではなく、そこにおられます。 どんなに居心地が良いものでなくても、神様はおそばにいてくださって、 私たちと歩みを共にしてくださってます。 私たちが良くない感情をあらわにした時、 周りの人たちは不愉快な気持ちになります。 それでも自分の魂(感情)を優先して 機嫌の良くない状態を続けてしまう時も多いです。 けれど、大切なことを思い出さなければなりません。 そんな時、「私たちの内なる神様の居心地はいかがなものなのだろうか?」 ってことを。 神様が私
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『神様大好き!みーのこころブログ♪』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く