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大谷翔平
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読者の皆様、2週間も更新が滞ってしまい、誠に申しわけございませんでした。実はこの2週間、ブログの方向性について悩んでおりました……。 なぜゆえにそのような悩みを持つに至ったか。以下、その顛末を記すと共に、今後の当ブログの方向性についても、併せて綴っていきたいと思います……。 Twitterでの、ある歴史ファンとのやり取り…… 事の起こりは、ある日のTwitter上での事であった。 僕はある歴史ファンの方のツイートを目にした。それは、ある歴史上の人物の魅力について書かれたものであった。だが、僕はその人物に対して否定的な考えを持っていたので、そのような旨のコメントをそのツイートに寄せさせてもらったのだ。 数時間後、件のツイートをした彼から、以下のような返信が返ってきた…。 「歴史書等の記述に従えば、どのような人物に対しても、そのような評価は出来るでしょう。僕は只単に“事の上辺だけで考えれば”と
天才的知略で越王句践(こうせん)に復讐を成し遂げさせることに成功した范蠡。彼のその後の生涯は如何なる流れを見せるのか? (前回までの流れ↓) www.chijoji.com www.chijoji.com 越の黄昏…… 呉(蘇州周辺)を滅亡させた後、越王句践は兵を率いて北上、中原(黄河中下流域)の諸侯と会盟し、時の王朝である周に覇者であることを認めさせた。これによって句践は、天下の第一人者となったのだ。 覇者句践誕生の陰の立役者・范蠡は、その功績から人臣の最高位である上将軍の称号を得た。 位人臣を極め、我が世の春を謳歌するかにみえた范蠡。だが、ここで彼は驚くべき決断をするのだ。……なんと! 栄耀栄華を約束された地位を捨て、野に下る道を選んだのだ!……なぜ? 越を去る直前、范蠡は友人である文種(ぶんしょう)に対し、このような書簡を送ったという……。 「“飛鳥尽きて良弓蔵われ、狡兎死して走狗烹
范蠡は、奇策を用いて呉の大軍を撃破。越にその名を轟かせた。 そして以後、越王句践(こうせん)の軍師として、その辣腕を揮うこととなる……。 (詳しくは前回参照↓) www.chijoji.com 敗北……そして忍従の日々へ…… 檇李(すいり)の戦いで敗北した呉は、新国王・夫差(ふさ)の下、国力の充実と兵力の増強に専念していた……。 それを知った越王句践は、機先を制すべく呉に攻撃を仕掛けようとした。 だが、それに対し范蠡は異を唱えた。 「兵は凶器、戦は悪逆、争いは事の末といいます。好んで凶器を使い、身を事の末に用いるのは、天帝の禁じるところであって、先に犯したほうが不利です」 だが、檇李での勝利で意気揚がる句践は、この諫言を退け出兵。結果、大敗を喫してしまう……。句践は会稽山(かいけいざん、浙江省紹興市)において屈辱的な和議を結ばされるものの、命だけは許され越へと帰国する……。(詳しい顛末は、
以前、炎の如き激情家・伍子胥の生涯を綴った…。 www.chijoji.com www.chijoji.com www.chijoji.com だが同時代(詳しくは↓の記事参照)、彼の炎の如き生涯とは対照的な、流水の如き生涯を生きた人物がいた……。 www.chijoji.com 天才軍師・范蠡 その驚愕の奇策! 紀元前496年、南方の辺境国・越(浙江省)の国王・允常が病死。子の句践(こうせん)が跡を継いだ……。 この政権交代の間隙を衝いて、隣国・呉(蘇州周辺)が越に攻め込んで来た。これに対し越は檇李(すいり)(浙江省平湖県の西)という地で迎え撃つこととなった。 ……先年、大国・楚(湖北省・湖南省)を打ち破り意気上がる呉。それに対し、政権交代が行われたばかりで君臣の意思の統一が執れておらず、且つ大国との戦の経験にも乏しい越……。将兵の質、士気共に圧倒的に不利であることは否めない……。 この
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