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パリ五輪
ameblo.jp/k2600nen
明治41年(1908)3月30日、当時は東京市京橋区南伝馬町 1丁目12番地に所在した書肆吉川弘文館 より1帙に収め られた7冊本の韻書が複製・刊行されました。 吉川弘文館版『佩文韻府』の第一冊表紙と第八冊奥付 『佩文韻府』(はいぶんいんぷ)というその韻書は、清国の 康熙50年(1711)に刊行された全106巻から成る大部なもので、 吉川弘文館 本はそれを6冊に縮印したものであるため、 利用者の便宜を図って附属の拡大鏡が添えられていました。 さらに吉川弘文館 本のもう一つの工夫は、画引きの索引を 附したことにあります。 『佩文韻府』は、熟語を末尾の文字の字韻によって「平水韻」 という106の韻の順に配列したものです。 「平水韻」というのは、漢詩の近体詩に用いられた音韻体系で、 平声(ひょうしょう)・上声(じょうしょう)・去声(きょしょう)・入声 (にっしょう)の四声を基本としつつ、該当する
WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に学海・依田百川 (1833-1909)の肖像写真を追加しました。 依田については、以前より『学海画夢』(全2冊、湯上市兵衛、 1885年)に所収されている肖像画を掲載しており、現在 「天馬行空 」のトップページでは両者を並べて掲載して ありますので、ご覧下さい。 WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に朗盧・阪谷素(さかたに・ しろし、1822-81)の肖像を追加しました。 阪谷素は備中国川上郡に阪田左五八の次男として生まれ、 昌平坂学問所の教官であった古賀侗庵(178-1847)らに 学び、帰郷して郷校興譲館を開き、門人たちに教授しました。 維新後は太政官・陸軍省・文部省・内務省などに出仕し、内務省 警視局の准奏任御用掛に在職中の明治14年1月15日に死去 しました。 子息の阪谷芳郎(1863-1941)は、大蔵省の官僚から大蔵大臣に 昇り、東京市
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